アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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信仰と理性について――稲垣良典「トマス・アクィナス」を読む(4) アリアドネ・アーカイブスより

 
このところ稲垣さんの本を読んでトマス・アクィナスについて少しづつ学んでいる。わたしとキリスト教との関係は、一方では三カ年の技術士倫理論文の完結のともなって完了したものである。しかし現象学運動の末席に連なる者として、なおカソリシズムの認識は驚異であり続けた。

トマスは、後の神の存在論的証明を先取りするかのように述べている。
「或る明白な事実(結果)から出発して第一原因(神)の存在を論証すること」と「神を神自身において認識する」こととは異なる、という。前者を「理性」、後者を「信仰」の領域であると、トマス自身は区分していたようだ。

ここのところは理解が現代では大変難しい。前者の、「まずすべての存在するものが第一原因たる神に由来するものであり、神によって存在せしめられていることは論証が可能である。」これをトミスムでは、創造論と名付けているらしい。

「すべての存在するものが第一原因たる神に由来するものであり、神によって存在せしめられていることは論証が可能である。そのことは「神は存在する」という命題の論証と実質的には同一であるといえる。」このようにすべての存在するものが神との絶対的な依存関係あるとき、その「絶対的な依存関係を「創造」と呼ぶならば、世界の創造は論証可能といわなければならない。」

「いいかえれば、世界の側からいえば、それが第一原因たる神に絶対依存することによってのみ、その意味で創造によってのみ存在することは必然的である。しかし、神の側からいえば世界を創造することは必然的ではないのであるから、世界が存在することは決して必然的でない。まして世界がその存在の始まりを有することは必然的ではない。したがってそれは哲学的に論証されることはでいない、というのがトマスの立場である。」

「神学と哲学、あるいは信仰と理性との関係という観点からトマスの創造論を見ていくと、そこには大きな内的緊張がふくまれていることにきずかざるをえない。すなわち、トマスは一方では創造の哲学的理解をおし進めるために最大の努力をはらっている。この努力とは創造の概念から、われわれの想像力によってつくりあげられた誤った表象とか観念――たとえば創造を何らかの変化としてうけとること――を取り除くことであり、またそれと同時に、存在するものをその全体において、最も根元的な仕方で捉えようとする試みであった。」

「しかし他方、トマスは神の働きとしての創造は、哲学的に論証されうることに属せず、だた神の啓示を通してのみ知られうること、いいかえると全く信仰に属することがらであることを強調する。後の述べるように、この意味での創造について正しく理解するためには三位一体の神秘へとさかのぼらなければならない、というのがトマスの考えである。」