アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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「信仰」、神認識の新たな転回――稲垣良典「トマス・アクィナス」を読む(5) アリアドネ・アーカイブスより

 
「われわれが事物において認識する善、生命、存在などの完全性は実は神において先住するものであって、事物における完全性はその分有を通して成立している、という考えかたである。このような考え方は、われわれが神を単に事物の第一原因たるかぎりにおいてではなく、(いかに不完全ではあっても)神をかれ自身において認識し始めていることを示すものである。そして、神認識の質的転化をもたらしたのが信仰であった。

神自身に属することとして語られることがらは、諸々の事物のなかで最上位にあるもの、すなわち精神的・知的な実体(つまりわれわれ自身の霊魂)にもとづいて理解しなければならないようになる。例えば神からの言葉の出生は、われわれが何事かを知性的に認識する際にわれわれ自身のなかで起こることにもとづいて理解されるであろう。また、精霊の発出は、われわれが意志でもって何者かを愛するさいにwれわれのうちで起こることにもとづいて理解されるであろう。

この場合われわれ自身のうちで起こることとは、三位一体なる神における完全性をそのまま再現するものでないことはいうまでもない。しかし、三位一体なる神(神的精神)と有限なる精神との間に完全性の分有にもとづいて何らかの類似が認められるかぎりにおいて、われわれは右にのべたような仕方で三位一体について語られることを何ほどかリ理解できるのである。」

そのうえで、トマスは「論証」と「説得」を区別する。
「神が唯一、無現、永遠であることをあきらかにする議論は、ことがらの根元をつきとめた上で、それにもとづいて神がしかじかであらねばならぬことを論ずるもので、証明あるいは論証的な議論である。これに対して神的ペルソナは三つであることをあきらかにする議論は、ことがらの根元をつきとめた上での議論ではなく、神が三位一体であることはあらかじめ措定されており、それに哲学的あるいは理性的な裏付けを与える、という種類のぎろんなのである。

トマスは一方で理性的探求にとっての固有領域と信仰に属することとを原則的に区分すると同時に、、信仰の導きの下に神の探求を万物の第一原因である限りのでの神の認識から神の本質へと転化させようと試みている。この後者のこころみ――それがアウグスティヌス以来の「信仰内容の理解」というスコラ神学の営みであり、信仰と理性との総合である――はトマスの三位一体論においてその頂点に達している」