アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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トマス・アクィナスの死――稲垣良典[信仰と理性」を読む(3) アリアドネ・アーカイブスより

 
「トマスはこの時40代の半ばを過ぎ、その学問は円熟の域に達し、パリ三年間の仕事ぶりから察して、体力的にいささかの衰えも見られず、ある意味でその生涯の頂点にたっているかに見えた。・・・しかし、実際にはトマスに残された余命はわずか二年足らずの短いものであった。」

西暦1273年12月6日、「聖ニコラウスの祝日の朝であった。この朝、いつものように聖ドミニコ教会内の聖ニコラウス礼拝堂でミサを捧げていたトマスは、またもや忘我の状態に陥ったが、この時以降書くことも口述することも一切停止した。かれはこの時『神学大全』第三部九十問題「悔悛」に関する部分を執筆中であった。長年秘書として僚友としてトマスの身辺にあったレギナルルドゥスが突然の変異に驚いて執筆の継続をうながしたにたいして、トマスはただ<もう出来ない>と答えるのみであったが、最後に「私が(聖ニコラウスの祝日に)見たものくらべると、以前に書いたものはすべて藁くずのように思われる」ともらした、と伝えられる。この暗示に満ちた言葉は、トマスの知的探求がここにいたってある根源的な展開を遂げたことを物語っている。」

「年があけると、病身のトマスはレギナルドゥスともう一人の従者とまなって、リヨンの長旅のため馬上の人となった。・・・第十四回公会議への出席のためであった。教皇グレゴリウス十世は・・・トマスの参加を強く要請した。」

ナポリを出て北上した一行はトマスが幼時を過ごした山野を通って旅を続けたが、姪のフランチェスカの居城、マエンザ城に着いた時には疲労と衰弱のため、それ以上旅を続けることは不可能となった。トマスは修道士にふさわしく修道院で死を迎えることを強く望んだので、二月の末、人々はかれをらばに乗せてそこから十キロあまり、フォッサノヴァのシト―会修道院へ移した。」

「3月5日、死期の迫ったトマスのもとに修道院長が自ら聖体をもたらすと、かれは最後の力をふりしぼって床に身を伏せ、長く祈った後、次の言葉を唱えて聖体を受けた――「わが魂の贖いの価である御身を受けたてまつる。わが旅路の糧である御身を受けたてまつる。私が学び、夜を徹して目覚め、苦労したのは御身の愛のためであった」こうして、一日おいて3月7日水曜日の朝、トマスは息をひきとったのである。
 不思議なことに、人々はトマスが地上に遺したもの、すなわちかれの説教と遺体のいずれにたいしても、この後長い間、それにふさわしい評価や安息を与えなかった。」