アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ある三位一体論、――言葉の受肉化と云うこと、その言語論的考察 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ヘーゲルは意識の様態を、対象意識、自己意識、理性の三段階に分類している。
 ヘーゲルの哲学はまさにキリスト教的母体から胚胎してきたものだとはよく言われることであるが、これをキリスト教の三位一体論について敷衍して考えると、以下のようになる。
 第一段階、神は実在としてあらゆるところに遍在する、と考える段階、あるいは非存在と云うあり方を知らない絶対的実在であると考える段階。人間は自己とは他なるものとして、神を意識する。ものごとを意識するに足るものとして、自己の外部に措定すると云う意味で、対象意識の段階である、と云える。
 聖書では旧約の段階であると云える。外なる神は絶対であり、実在そのものの在り方であるからこれについては語ることも働きかけることも、何らかの意図的な行為をすることもできない、不可視、不可侵の存在である。
 第二段階、自己とは他なるものとして、外部に屹立する対象としてあった存在が、自己の内部においても存在し始める段階、自己意識の段階である。この段階では神を自分自身の内面に見出すだけでなく、外なる神の実在像に対しても自分自身の投影をみる。
 自己意識の段階は、単に人間が意識であることを超えて、行動や行動を実現する段階でもある。それゆえにこそ、子なるキリストは、受難と云う行動を選び取る。この時、行為の中で言葉が生まれる。
 第三段階にある聖霊とはなにか、これが一番わかりにくく、いまも解らないままである。
 聖霊とは、もしかしたら言葉のことではないのか。言葉の中で、単なる外化した実在であることでしか自らの在り方を知らない、実在の遍在であるに過ぎない神は、次なる過程で行為となり、行為としてのパッション=受難は言葉の中で身籠り、胚胎し、受肉化するのではなかろうか。神は、もしかしたら聖霊的経験の揺籃のなかで神と云う名を得るのではあるまいか。神もまた、人間の自己救済と云う実存の契機に支えられて自らを完全なる実現態とするのではあるまいか。
 キリスト教の言語観のなかでは、行為のなかで言語として生まれる言葉の在り方と、天地開闢の根源から神とともに世界を創造した、ヨハネ福音書に云う根源的言語とを区別しなければならない。その聖霊的言語とは根源的言語のことではないのか。
 前者を、到来する言語と名付ける。後者を根源的言語といま仮に呼んでいる。両者の関係は今回の話題とは少し離れるが、到来する言語とは、単なる名としての言語が事象なり経験に重ねられたとき、始めて人間的時間がめぐり始める、と云う契機を秘めている。到来する言語はその時、外から名付けられた単なる名称ではなく、言葉の揺籃のなかで反って現実が醸成され形成される、人間的現実が誕生する場なのである。その時、到来する言語と根源的言語は同じもの、ひとつのものなのである。
 
 なぜ今ごろ、黴の生えかかったようなキリスト教の教義のことを蒸し返すかと云えば、――例えばミスター・トランプの言語の用法はヘーゲルの、対象意識、自己意識、理性、あるいはキリスト教的三位一体論の段階的理解から云えば、①実在の対象性への言及、②自己への反省的言及(言語の誕生)、③聖霊に見守られた神概念の受肉化、と云う段階を考えた場合にどの段階に属するのだろうか、と考えてみたのである。
 ――言葉ばかりで行動しないものがいる、と云うのが彼の言語論、あるいは決まり文句であるのだから、言葉を内面に照らして発現すると云う意識に対しては臆病であると云うか、自らにかかる行為を禁止しているかに見えるのであるから、第一段階である対象意識の段階にある言語論、神概念としては旧約的な理解の仕方であると云うことはできるだろう。
 言葉やあらゆる観念論的な言説に対する反感、――これは我が国の安倍晋三などにも共通する際立った特徴であるが(注)、要するに理想や思想的信条よりも、眼に見える効果、成果を第一義的に期待すると云う意味では、旧約聖書的な言語論と言ってよいだろう。成果第一主義の民活理論と異なるのは、理想や観念論的言辞に対するあからさまな小役人的感情と下士官的反感を庶民的人気商売のセオリーとして利用している。ヒトラーが以前利用した常套手段であり、庶民的劣等感と云う負の感情に巧みに取り入り、自らを庶民派と自称するのである。かかる商法は恐怖とお笑い路線と紙一重の政治的ポピュリズムである。かかる小役人的発想がミスター・トランプだけでなく、従前より、ロシアンファーストを陰に陽に標榜してきた北極熊のちびのプーさんこと、ミスター・ベア、――ミスター・プーチンはこの道の先輩格である。
※(注) 「重要なことは言葉を重ねることではありません」(2017・1・23 安部首相・施政方針演説より。国会の議事進行を念頭に置いた発言。むしろ経験や行為に言葉を重ねることで、人の行為は人間となる、とわたくしたちなら云うであろう。)
 類は友を呼ぶと云うけれども、温泉宿で地酒を酌み交わしても、犬を交換しても、ゴルフコースを廻ってみせても、異常に近すぎる過剰な演出は腹の中での利害の演習、算術問題に過ぎない。もともと言語の第一段階においては、かかる人品の階梯においては、そもそも尊敬や敬意と云う言語が存在しないのである。プーチンは政治のプロフェッショナルとして、おもてなし外交などに過剰な期待を抱かないように、事前に側近に様々に演じさせてみせたが、作り笑いの仮面の表情の中央に異様に眼だけが鮫のように笑わない冷徹さを見せつけて、人情主義者などちゃんちゃら可笑しいことを表現して見せた。
 ミスター・ベアならぬミスター・アベは、ちびのプーさんとの距離の取り方に今回ばかりは最初は面食らい、次には国際政治的感覚の冷徹さを味わうなかで、失意からくる落差感覚のなかで次第に苦労の皺を刻みつつ苦悩と苦悶の表情を表し、それで肝心な時に一度も、ウラジミールと呼びかけるタイミングに恵まれなかったのは舞台装置が入念に仕上げられていただけに哀れであった。それでも帰国の途に就く瞬きするようなほんの一瞬の瞬間を利用して、最後の瀬戸際にウラジミールと呼びかけてみせて、何とかメディア向けに自分としては対面を保つことが出来たと自己評価したようだ。利害関係しか頭にない下品な相手に対して人情論など持ち出すことは、今後国際政治の舞台で大怪我をする懸念材料ともなりかねない。
 ここで思い出したのはお人好しのムッソリーニヒトラーの関係である。当初ムッソリーニは軽く考えていて、兄貴分と持ち上げられた居心地の良さの中で色々とアドバイスができると考えていた。イタリア人らしいファッションセンスで色々と「指導」したらしいが、ヒトラーの正体に気が付いたときは雁字搦めにされて無理心中を強いられるほかの手立てはなく、万事が手遅れだったのである。
   政治家と云うものは、彼が何を語り、何を約束したか、あるいは何をやってくれたかよりも、彼の言語に対するセンスのおいてより一層正確に彼の人となり、人間性を評価できるものである。人間の品性は彼の言語感覚に現れる。
 彼らに、人生意気に感じる、などと云うことはないのである。意気に感じることがあるとすれば、商売が上手くいったときか博打に勝ったときである。大統領選自体がならず者の博打のようなものであったのだから。
 
 彼らとは対極にある、古い形の政治家、アンゲラ・メルケルはどの段階であるだろうか。ドイツの経済や雇用事情もあるにせよ、移民政策に対して寛容で、原発政策や軍事行動には慎重な、西洋的理性の最後の代表者であるかに見える彼女の行動を支えるのも、キリスト教の精神である。”欧州のおっかさん”は、いま孤児の養育問題で苦慮する立場に追いやられている。
 彼女の言い分を代弁すれば、言葉の口先だけのものがいる!などと云う下品な政治的挑発に対しては、言葉にすら翻訳できないような行為とはそもそも何なのだろうか、という原理的な問い返しがある。行為か言葉かではなく、言語化受肉化)できないような行為はそもそも人間の行為とは言えないのである。
 
 バラク・オバマアメリカ合衆国大統領とは不思議な政治家である、政治的生命の終焉する最後の数か月間に彼はその真価の片鱗を見せることになる。
 そこで語られたのはイデオロギーではなく、言葉への信頼であった。それを聴く耳を持たないものの耳には、口先だけの綺麗ごと、と聴こえたのである。だれしも自らの可聴域、可視を超えた領域については聴こえることも見えることもないし、それについて語りえないし、語りえないことはそのまま、かような彼自身のレベルにおいてはこの世に存在しない、ことと同義となる。しかし無能なものが己の知性のレベルを超えたものを理解できないと云うことと、事実上それがこの世に存在しないことは、違う。ここに人間としての器量の問題が介在する。
 ミスター・オバマが自らの政治的生命が尽きようとするときにとった作戦とは、言葉の領域による後退作戦であった。つまりあらゆる現実的な行動の可能性が閉ざされたとき、少なくとも言葉の固有な力に寄って最後の抵抗を試みると云うこと。政治家とは、本来言葉の専門職であるから、最後によって立つ自らの卓越せる能力の名に於いて、言語の普遍的な意義に於いて、言語自身が自らを開示する言語自身の権威の名に於いて、大々的に、悪と凡庸さに対抗するための、退きつつ闘うと云う巧妙に仕組まれた後退作戦と云う名の大規模で不可視のな反撃を、硝煙漂う敗色濃い全戦線の要所に敷衍しつつ局地戦においては部分的に押し返し、ミスター・トランプと王朝的一族を退きつつ撃退するために、以降にも以後にも継続して続くであろう言語の、永遠のゲリラ戦とパルチザン戦線とを不可視の理想と良識の山河に用意したのは至極当然のことであった。
 バラク・オバマアンゲラ・メルケルは、政治的発言が自らの内面鏡に反射しつつ煌めく理性の残照が、夕映えにもにた茜色の複雑な乱反射の歴史の政治的反作用を及ぼすと云う意味で、第二段階、自己意識の段階、パッション=受難と云う行為によって言葉が誕生しようとする、その段階、その位置、その時刻を意味している、と思う。
 バラクとアンゲラによって語られた言葉が、新約的言語が、受肉化された言葉となるか否か、つまり到来的言語の揺籃のなかで受胎し、萌芽し、受肉化された聖霊的言語となるか否かは、受容体としての我々が持つ言葉の体系のキャパシティ如何なのである。
 
 
(付記) 
 トランプ、プーチン安倍晋三と並べて、大変に似たキャラクターだが次の点で違っている。トランプは、愚か者である方が彼がかって属したビジネス社会では上手くいくと考えている。プーチンは後進ロシアの国情と民度の成熟の度合いを考えたときに、愚かさを国民の愚かさに重ね演じることに戦略的意義を見出しているかに見える。実効的な成果を期待できない二人にとっては、政治とは所詮、人気商売のような水物であり、人気取りの収支決算と残高計上が全てであると云う、醒めた認識に立脚しています。最初は吹っかけて、相手を見ながら値引きをするのです。キリスト教的な認識の過程を経ることで、人は博愛的になることもできるし、――ここまで冷静な計算高い商売人になることもできるというわけです。このへんが、ある意味で純情なところがある安倍君とは違うところです。欧米的思考に憧憬を抱く余り、その感染力に無防備であってはならない、と云うのがわたくしの考えです。
  自分は賢く有能な政治家であると云うのが安倍晋三の自己評価であるようにみえる。愚かな国民に成り代わって他ならぬ自分が考え実行し、議論や言葉に先立つ行動こそが大事であり、説明は後でもよいし事後説明でも十分である、と考えている。言葉などどうにでもなるものだ、と云うのが彼の言語観である。