アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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時と永遠――アニメ版で語る『風の谷のナウシカ』 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 正月休みの徒然に、子供たちと劇場版『風の谷のナウシカ』を観ました。子供たちと云っても既に三十歳です。
 そして、数年前に読んだ、アニメ版の方も同時に思い出していました。
 世界最終戦争が終わったのちの、僅かに生き残った人類の党派と居留民、残党たちが繰り広げる、殺伐とした滅びと殺戮と崩壊の物語。その背後には、汚染された地球環境があり、砂漠化していく現実がある。沙漠化の現象と、生き延びて奇態な形に進化した奇妙な動植物たちと、人類の滅びの象徴にのような、オウムと云う名の、巨大な昆虫の群れ。何万頭も、何百万とういるかわか分からない、流砂のような押し寄せるオウムの群れに怯えて暮らす、人類の生き残りたち。しかし、物語が終わるころには、そのオウムこそ、地球環境上の汚染物質を砂状の粒子として固着させ、無害化させ、豊富な酸素に恵まれた地球環境を再生させる守護神だった。しかし、皮肉なことに、長年月に渡って汚染環境に馴染んできた人類の体質は、きれいすぎる環境には耐えられない体質へと変質していたのだった。そのことをナウシカは自分だけの胸に秘めて、人類の滅びのままに生きて行こうとする、こうしたイロニーに満ちた物語が、アニメ版である。
 
 ヘーゲルの意識の諸段階説をここにおいても適用してみると、以下のようになる。
 汚染が進む地球環境下の滅びの世界の叙事詩、人類の運命が黙示録的文体で語られる。ものごとの真相を冷徹に突き止め論理化する意識とは何か。ヘーゲルの言う対象意識である。ナウシカの対象意識は、滅びつつある人類の秘められた世界を突き止める。ここでの主役は、認識、と云う行為である。
 対象の謎を裸にせんとして向かった意識は反転して自らの内面に向かう。ナウシカの幼少時代の思い出。精神を病み、母親に愛されなかった過去。優しくはあるけれども、老いて祖父のような父親が愛の代わりを果たすことはできなかった。愛の欠損は、そもそものこの世に生まれてきたことの、己の実存の最終的根拠を揺るがせる。
 同時に、ここに世界最終戦争の最終的決着手段として登場してきたオーマと云う、有機体にして核分裂反応を武器とする軟体状の怪物に精神が芽生え、人類が滅びの道を歩いてきた長年月の間にオーマの精神は進化し、心を持つようになっていた。オーマもまた、愛を知ることなくこの世に生存を与えられたある意味での欠損的存在であることには変わりはなかった。
 母の愛に於いて欠落感覚を埋めることが出来ないでいるナウシカと、自らの欠落していたものをナウシカへの慕情によって埋め合わせしようとするオーマとの間に意識と深層心理の均衡関係が生まれる。オーマはナウシカのために自らを破壊兵器と化して、神権政治と云う名の根源的悪に対向して、自己犠牲的に滅んでいく。母なるものへの愛ゆえに!
 つまり、この段階の意識の在りようとは、自らの意思を自覚的な実存として捉え、選択的な行為として自らの人生を選んでいく。つまり、ヘーゲルの意識の第二段階、自己意識の段階とは、行為と云う次元を生み出すのである。ここでの行為は、キリスト教の受難と云う行為に似ている。ナウシカもまた、オーマの行為に殉ずるように、巨大な怒りの炎と化したオームの大群に自らの命を奉げて命乞いをしようとする。愛と云う言葉を用いて!
 世界最終戦争以降の、生き残った党派と残党たちの闘いもまた終わったいま、まるでノアの箱舟の大洪水のあとのように生き延びた自分たち居留民たちの姿と、世界の滅びの全容を見届けた、めしいたる巫女頭の御婆は、オウムの触足が醸し出す金色の焔に、永遠の稲のそよぎにも似た金色の海原を幻視し、いにしえの、その言葉を思い出す。
 
「その者青き衣をまといて金色(こんじき)の野に降り立つべし。失われし大地との絆を結び、遂に人々を青き清浄の地に導かん」
 
 つまり、行為と云う人間的な行為の後には、言葉が到来する。わたくしが繰り返し主張してきた、到来する言語とは、言葉を御言葉として受肉化させる言語なのである。
 こうして、人類的意識の諸段階を廻る壮大な物語は、黙示録的言語(旧約的世界)、受難的言語(新約的世界)、そして到来する言語(聖霊の身籠りとしての言語)としての三位一体論の寿ぎとして、美しい円環を閉じる。
 このとき、到来する言語は、過去時制を身に纏いつつ、伝承と伝説のヨハネの根源的言語と出会う。過去と未来とが渦を巻く煌めく沈黙の夜の星座の、宇宙空間的な規模に及ぶ始原が終結へと巡り合う錬金術的な融合の苛烈とも見える過程の中で、この時過去と未来は現在の中で始原的出会いを経験し、わたくしたちは 永遠、に触れる。
 わたくしたちは、言語の発展的過程を通して、永遠 なるものと遭遇するのである。