アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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鹿島茂の『失われた時を求めて』の完読を求めて〜「スワンの家の方へ」精読

 
 初めて読むプルーストの入門書というよりも、読んでみようとして挫折した経験のある読者向けの解説書、と言えばいいだろうか。
 内容が豊富なので、わたしは次の点に興味を抱いた。
 
 一番目は、同性愛の問題。生物学的、生殖学的意味を除けば、精神と肉体の関係に還元される。イデアなるものと物質・物象の関係といってもいい。この両者は、並行的、正比例の関係には必ずしもない、という点にわたしは以前より関心を抱いている。風俗としての同性愛関係については無知だし、ほとんど興味がない。
 
 二番目は、サディズムマゾヒズムの関係。誰しもにある両者の傾向、どこから来てどこにいくのかさっぱりわからない。鹿島茂の本で面白いのは、サディズムマゾヒズムの関係が端的には分けることができなくて、事情や状況によって相互に転移し返還する点にあるという指摘が面白い。
 つまり、同性愛もまた相互に転換し転移するのだから、類似の精神的構図を持つということになる。
 
 この本の特徴は、プルーストの交錯した迷宮のようなこの大著を、謎解きの探偵小説的手法を用いて、知的に、あくまで論理的に改名しようと心がけた点にある。
 印象に残ったのは、第一巻『スワンの家の方へ』の第三部「さまざまな土地の名、名前というもの」として訳した経緯を綴った部分だろう。最後のLE NOMは、定冠詞であることを根拠に、「・・・というもの」と訳した、というのですね。定冠詞を冠されているということは、NOMがここでは固有のものやこと、つまり最終的にはジルベルトという固有の女性を意味暗示している、と言うことになると言うのですね。鹿島によれば、複数ある日本語訳ではこうした事例ーー定冠詞と歩定冠詞に違いに着目して訳した事例はないのだそうです。これが三番目にわたしの印象に残ってことです。
 
 最後に、全七巻にも及ぶ大作を、最初の一巻のみに置いて「精読』!することの意義を考えると、もともとこの大著が円環構造をなしており、全体の概要を知っておればこの巻だけでも全体を展望しうる、と言う鹿島の意見なのです。それは大作を通じておきるさまざまな事象や事件がそれぞれ入れ子構造をとっており、相似関係にあることが見て取れるからです。
 
 最後に、わたしの注文を一つだけ付け加えれば、この大作における「超越的・特権的時間」のことなのです。
 鹿島は、全てを個人の意識や心理作用によって説明しうると言う考えのようですが、芸術作品というものは、最終的には人格を超え、言語自身へと回帰するものなのです。
 プルーストの物語が偉大な人間ドラマであるのは、平凡さや凡庸さと見えるものが時に、本人にも気づかれることなく、時の豊穣としてして現れる、と言う転移あるのではないかと思うのですが。
 例えばゲルマント夫人、オペラ座の観劇の場面で海底を泳ぐ華麗な水の女神たちとして描かれている有名な場面がありますが、実際はプライドだけ高い貴族社会の俗物なのですね。その俗物が改心することなく、そのままの在り方で人類的時間の偉大さを本人の意識するところを遥かに超えて顕現する、と言うイロニーがあるのです。
 同様に、語り手以上に重要な役を振られているスワン氏にしても、彼の奇妙な恋愛遍歴の終始を負いながら、苦悩する間は後期でもあれば偉大でもあったこの人物が、最後はオデットとはその程度の温案であったか、と述懐する段階で、よくある俗物へと転落するのです。つまり定冠詞と不定冠詞の違いに拘れば、固有名詞(定冠詞)から普通名詞(不定冠詞つまり任意の存在)なるものへと転落するのです。
 
 これはゲルマント夫人夫人やスワン氏と言う重要人物だけに言えることではなくて、ほんの橋役であるコタール夫人が失意のスワンとすれ違う場面でも典型的に現れています。この人の良い夫人は、実際には夫の不貞を知りません。このやがては陰りの中に消えていく橋役の一人においてすらプルーストは王冠ににも似た、特権的時間をプレゼントしているのです。
 
 
 
 
 

パヴェーゼを読みたくて〜『女ともだち』 

 
 パヴェーゼ最晩年の本、と言うことは、この本を書いてから一年後に彼は亡くなるのだが、あのスキャンダラスでもあればミステリアスな事件とともに。
 
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 先回書いた『美しい夏』とともに、小説設定は似ている。二人のヒロイン、男たちが主要なテーマを演ずることはない。パヴェ〜ゼにとって、何故女流作家のような作品が際立つのか!人は性差の違いを論ずる以前に、何故パヴェーゼがかくも、異性の心理を描きうるのか、と言う点について、不思議に思わなければいけないだろう。
 
 性とはなんなのか。性差とは?
 
 閑話休題。主人公も二人の女たち。戦後の、未だ戦争の傷跡が生々しく残るトリノ、そこにローマから里帰りしてきた熟年の女性デザイナーがいる。小さな街なので彼女はちょっとした有名人になる。故郷に錦を飾ったと言う意味ではないけれども。彼女の周りに群がるトリノの若者たち。なぜか、彼女と同世代の物は少ない、一人の聡明らしい男友達を除いて。彼との間に、恋愛話が成立するのかと思っていたら、そうではなかった。もう一人の、自殺願望の強い、上流階級の娘が一人。ヒロインがトリノに到着した晩に同じホテルで彼女は自殺未遂事件を起こす。二人をつなぐのは、そんな儚い偶然性だけなのである。経歴をとっても、人生に対する態度をとっても、性格や趣向は言うに及ばず共通点は少ない。
 
 しかし経歴こそ語られないけれども、ヒロインは過去に事件を起こしたことのある、「事後」の人間?なのではなかろうか。実際にそう言うことがあったと言うことではなくて、そうした願望を秘めた生き方をしてきた人間の一人であったとしても、かまわない。そうでなければ思春期の小娘の自殺願望にかくも親身に付き合うはずがないではないか。しかもヒロインはローマの本店からトリノに新規に店を開くために派遣されてきた多忙なビジネスマンという設定であったのではなかったか。
 
 物語は、トリノショールームの改修工事と、煩わしい建築家や現場監督たちとのややこしい交渉ごとの記述とともに同時進行する。店はどうにかトリノの一角に竣工し、気難しいローマのおばちゃまワンマンオーナーを迎えて、どうにか開店の目処も立ちそうな雰囲気の中で、あの若い娘は二度目の自殺を試みてそれに成功する。小説はそこで終わる。
 
 パヴェ〜ゼの本は例によって、暗示や言外の黙示によって記述される。説明はなく、所感と客観的記述だけがある。
 誰も若い娘の自殺願望を止めることはできない。もしかしたらヒロインだけがそれができたかもしれない。しかし、彼女は動かなかったし、自殺を阻止する積極的な理由を見出せなかった。
 
 ここで描かれているのは、自殺という名の生命の過剰!のことなのである。
 
 誰もがパヴェーゼの自殺を止めることはできなかった。文学賞を取ったばかりで、これから有名人たちの群像の中に名を連ね始める直前の彼の死、早すぎる青年作家の死!-ー自殺の理由についてはさまざまに噂され、推測されたけれどもいまだに合理的な理由がわかっていない。
 
 自殺に理由など要らないのである。
 
 政治と文学、彼には異質なものの対立を秘めた内面生活と戦前戦中戦後の時間があった。
 戦争を挟んだ動乱の時代に死んだ者たち、彼の戦友とも言える友人知人たち、その中にはギンズブルクもいたはずだ。
 死することによって絶対となった死者たち。
 
 有名人になって、これから華やかな戦後の時代が幕開けされようという時になって、パヴェ〜ぜは重たさに生きていけないと思ったのではなかろうか。戦後の華やかさが予感されればされるほど、そのような時代とは異質なものとしての彼がいた。
 
 戦前中戦後を切り抜けて、本書のヒロインは生きるだろう、パヴェーゼの対極にあるものとして。その生き方は、あるいは生き延びる、という語感こそ相応しいかもしれない。パヴェーゼは自分自身をネガとしてポジを描いた。しかしそうだからと言って、そうだからこそ、より逞しく生きうるのかもしれない、彼女は。
 
 戦後の繁栄の中で、内面にはあの「荒野」を秘めたまま。轟々となる荒野を!風荒む荒野を!
 
 
(追記)
 このほとんど半世紀以上も前の翻訳本を紐解いて改めて思ったことーーこの時代のイタリア文学の本は、フランス語や英語を通じての二次翻訳であったのですね。本格的なイタリア文学者というものはまだ戦後の我が国の文学界には存在していなかった?あるいはいても、とても数が少なかった?ーー須賀敦子の本を読んでいるとなんとなくわかります。

トリュフォーの”終電車” アリアドネ・アーカイブスより

 
フランス文化の香気とはこのようなものである、と言わんばかりの力を見せつけた作品である。”アメリカの夜”が今世紀のハリウッドをはじめとする映画産業と映画人への賛辞で貫かていいたように、この映画は戦時下のパリを舞台として、消ゆることなき演劇の灯を守り続けた人々を描くことを通じて、トリュフォー映画の、映画人ドヌーヴを取り上げることで、戦後フランス映画への絢爛たるオマージュとなっている。

この映画はフランス映画を牽引力となって支え続けたカトリーヌ・ドヌーブという女優が銀幕の上に築き上げた二面性、神秘とスキャンダラス、聖性と獣性という二面性をそのまま映画に写し取って、主亡きあとのモンマルトル座を健気にも支える女座長とその裏面に潜む女心の葛藤を、パリ開放前後の不安の時代を背景に描いている。

この映画の制作当時、ドヌーブ、四十代前、いまだ十分に美しい。否、美貌の輪郭が崩れてきて来ていて女性としての匂うような優しさが滲み出てきたと言おうか。ドヌーブはこの映画の女座長のように日々日常を支える重責のため本当の自分自身に気づくことはない。

ナチ政権下の過酷な検閲制度のため、明日が確実にくるとは言えない状況の中で、一日一日を生き延びていくほかはない日々であった。一座懸案の苦心の”消え去った女”という演目の初日が好評のうちに演じきったとき、感あまって共演のベルナールにキスをしてしまう。本人はそのことを忘れてしますのだが――意識化の抑圧が効いたのか――ベルナールにとっては、彼女への愛を自覚する結果になる。

ヌーベルヴァーグは好きだが、長い間カトリーヌ・ドヌーヴは評価してこなかった。ジャンヌ・モローアニー・ジラルドー、それからブリジッド・バルドーやジェーンフォンダのほうが美しいと信じていた。”アメリカの夜”のジャクリーヌ・ビセットの場合もそうだが、今更ながらに美しさを思い知らされたのは、やはりトリュフォーゆえにであったのだろうか。一観客である私もまた、劇中のベルナールのように、”強き女”の背後の優しさを感じていた。


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解説・あらすじ - 終電車(1981)
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解説
ナチ占領下の混乱のパリを舞台に劇場を守る一人の女優の愛を描く。製作・監督は「緑色の部屋」のフランソワ・トリュフォー、脚本はトリュフォーとシュザンヌ・シフマン、台詞はトリュフォー、シフマンとジャン・クロード・グランベルグ、撮影はネストール・アルメンドロス、音楽は
、編集はマルティーヌ・バラーク、マリー・エーメ・デブリルとジャン・フランソワ・ジル、美術はジャン・ピエール・コユ・スヴェルコが各々担当。出演はカトリーヌ・ドヌーヴジェラール・ドパルデュー、ジャン・ポワレ、ハインツ・ベネント、アンドレア・フェレオル、サビーヌ・オードパンジャン・ルイ・リシャール、モーリス・リッシュなど。


あらすじ
第二次大戦中、ナチ占領下のパリ。人々は夜間外出を禁止され、地下鉄の終電車に殺到する。この混乱の時代は、しかし映画館や劇場には活況を与えていた。そんな劇場の一つモンマルトル劇場の支配人であり演出家のルカ・シュタイナー(ハインツ・ベネント)は、ユダヤ人であるため、南米に逃亡し劇場の経営を妻であり看板女優のマリオン(カトリーヌ・ドヌーヴ)にまかせていた。彼女は、今、ルカが翻訳したノルウェーの戯曲『消えた女』を俳優のジャン・ルー(ジャン・ポワレ)の演出で上演しようとしていた。相手役には新人のベルナール・グランジェ(ジェラール・ドパルデュー)が起用された。ジャン・ルーは、この戯曲の上演許可のため、ドイツ軍の御用批評家ダクシア(ジャン・ルイ・リシャール)とも親しくしているというやり手である。連日稽古が続けられるが、稽古が終ると、ベルナールはカフェで数人の若者たちと会って何か相談し合っており、一方マリオンは暗闇の劇場に戻って地下へ降りていく。地下室には、何と、南米に逃げたはずのルカが隠れていたのだ。夜マリオンが会いに来るのを待ちうけ、昼は、上で行なわれている舞台劇の様子を通風孔の管を使って聞き、やってくるマリオンにアドバイスを与えた。つまり、彼は地下にいながら、実質的な演出者だったのだ。初演の日、『消えた女』は、大好評のうちに幕をとじるが、ルカは満足しなかった。そして、翌日の新聞でダクシアは酷評を書いた。マリオンは、舞台の稽古をしながら、いつしかベルナールに惹かれている自分を感じていたが、あるレストランで彼がダクシアに酷評の謝罪を迫ったことで彼に怒りをおぼえた。『消えた女』は好評を続けるが、ベルナールがレジスタに参加するために劇場を去ることになったある日、初めて会ったルカから「妻は君を愛している」と言われ動揺するベルナール。そしていよいよ彼が去る日、二人ははじめて結ばれた。連合軍がノルマンディーに上陸し、パリ解放も目前に近づいた。ルカは屋外に出ることが実現し、ダクシアは国外に逃亡する。そして、マリオンは、愛する夫の演出で、愛する若手俳優ベルナールと共演し、艶やかな笑顔で観客に応えているのだった。


キャスト(役名)
Catherine Deneuve カトリーヌ・ドヌーヴ (Marion Steiner)
Gerard Depardieu ジェラール・ドパルデュー (Bernard Granger)
Jean Poiret ジャン・ポワレ (Jean Loup Cottins)
Heinz Bennent ハインツ・ベネント (Lucas)
Andrea Ferreol アンドレア・フェレオル (Arlette)
Sabine Haudepin サビーヌ・オードパン (Nadine)
Jean Louis Richard ジャン・ルイ・リシャール (Daxiat)
Maurice Risch モーリス・リッシュ (Raymond)
スタッフ
監督
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
製作
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
脚本
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
台詞
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
Jean Claude Grumberg ジャン・クロード・グランベルグ
撮影
Nestor Almendros ネストール・アルメンドロス
音楽
Georges Delerue ジョルジュ・ドルリュー
美術
Jean Pierre Kohut Svelko ジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ
編集
Martine Barraque マルティーヌ・バラーク
Marie Aimee Debril マリー・エーメ・デブリ
Jean Francois Gire ジャン・フランソワ・ジル
字幕監修
山田宏一 ヤマダコウイチ

トリュフォーの思春期 アリアドネ・アーカイブスより

 
事前に予備知識をほとんど持たなかったので、いかにもヌーベルヴァーグ風の映画手法や素材の選び方に、初期の作品を予想させた。1976年とは、わたしが映画鑑賞から遠ざかっていた時期なので
既に”柔らかい肌”や”突然炎の如く”のようなミステリアスな、大人の映画を作り終えた時期に該当するわけで、彼の早すぎた死の数年前、トリュフォーの中に一種の精神と感性のルネサンスのごとき現象が起きていたことを思わせる。この高揚感はその後も持続していいて、1977年のスピルバーグ監督に請われるままに映画初出演を果たした”未知との遭遇”にも見られるように、従来型のトリュフォーでは考えられない新しい出来事が起きていたことになる。

感想を一言で言うならば、トリュフォーの最高傑作と考えていいのではないかと思う。もちろん、映画はエンターティナーであり、音楽、舞台、衣裳も含めた視覚芸術としての総合性、として評価されなければならない。1981年の”終電車”はこれぞフランス映画だ、フランス映画の香気とはこうゆうものをいうのですよとばかり、カトリーヌ・ドヌーヴ、とはつまりフランス映画の象徴としての、そして最高級の女性への賓辞としての映画人としての女優の存在にささげられている。いわば国策映画ともいえる、フランス文化への賛辞なのである。”アメリカの夜”が映画産業、とりわけハリウッドをはじめとする映画人への賛歌であったように。いわばトリュフォーは人生の最後に、集大成とでもいうべき傑作を、少なくとも二つは残していることになる。

しかし功成り名を遂げた映画人としてのトリュフォーの存在はさりながら、ヌーベルヴァーグを出発点とした映像詩人のトリュフォーの最高傑作は、ということになると、この映画になるのではなかろうか。トリュフォーを語る場合のキーワード、幼年期の孤児性、ヌーベルヴァーグ、フランス文化と女性賛歌という要素が、ここでは統一態をなし、それがそのまま人生賛歌へと繋がっている。

映画はジュリアンという身なり貧しい転校生を受け入れるフランスの地方都市の風景から始まる。ジュリアンの風景には、”野生の少年”の余韻が、そして孤独な少年期を送ったトリュフォーの自伝的要素が暗示されている。しかしこの映画のジュリアンに姿を借りても、あるいは”野生の少年”においてもトリュフォーには不思議な遠慮があり、自分の思いを語ることはなかった。

この映画がトリュフォー映画の最高傑作と思うのは、この映画にはトリュフォーらしい節度や遠慮、さらには映像の客観性が欠けているからである。この時期にトリュフォーは思いもかけず、生涯をかけて秘め続けてきた思いを爆発させてもよいと考えた。

こうして幕切れ近くの小学校教師パトリックの感情の爆発を見ることができる。いままでおしゃべりやいたずらに余念のなかった腕白小僧が聞き入る姿をカメラは映し出す。秘められた思いとは、人間への信頼、人生という時間への信頼であった。この映画の、この瞬間においてトリュフォーの孤児性は克服された、と見るべきである。

そして最後の華やかなエンディング!行き違いになった青春前期の幼い二人が、上と下から、階段の踊り場近くでぎこちないキスをする場面、そしてこの場面を仕組んだクラスメートたちの盛大な拍手と歓呼の中に、思い出をひきずるように、この映画は終わる。映画だけが良いものなのではなく、人生もよいものなのだと、生きることへの信頼を呼びかけてこの映画は終わる、まるでトリュフォーの遺言ででもあるかのように。

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解説・あらすじ - トリュフォーの思春期(1976)

解説
フランスの小都市の小学校を舞台に、子供たちが織りなすエピソードをユーモラスに綴る。監督は「アデルの恋の物語」のフランソワ・トリュフォー、脚本はトリュフォー自身と、「アデルの恋の物語」に引き続いて共作したシュザンヌ・シフマン、撮影はピエール・ウィリアム・グレン、音楽は故モリース・ジョーベールの旋律を使用、主題曲はシャルル・トレネの「日曜日は退屈」。出演は数百人からのオーディションに合格した、ジョーリー・デムソー、フィリップ・ゴールドマン、リシャール・ゴルフィー、シルヴィー・グレセル、パスカル・ブリュション、そしてトリュフォの愛娘エヴァトリュフォーなど。


あらすじ
フランス中部の平和な小都市。パトリック(ジョーリー・デムソー)の学校に新入生が入ってきた。彼の名前はジュリアン(フィリップ・ゴールドマン)といい、どこか陰のある少年だった。パトリックはいまや思春期の真盛りで、美容院を経営する友人ローラン(L・デブラミンク)の美人のママに夢中である。ワンパク少年たちの社会科を受け持つリシェ先生のアパートでも、毎日、子供たちのドラマが生まれている。2歳になったグレゴリーはペットの飼猫をベランダまで追いかけて、十階から墜落。だが幸運にも落下地点が軟土だったのが幸いした。キョトンとしたグレゴリーを見て、ママの方が気絶。一方、同じアパートに住む8歳になるシルヴィー(シルヴィー・グレセル)は、両親同伴の外出を拒否したために部屋に閉じ込められた。やがて空腹になったシルヴィーは拡声器でアパート中の住人に届くように「お腹が空いたッ」と連呼。気の毒がった隣人たちは、ロープとカゴを使ってパンや果物をシルヴィーの部屋へ運んでやった。クローディオとフランクのルカ兄弟はリシャール(リシャール・ゴルフィー)の散髪代800フランをまきあげ、なれない手つきでリシャールの頭を刈りこんでしまう。その頭を見て怒ったリシャールの父は、ローランの店へどなりこんだ。一方、パトリックのローランのママに対する想いはつのるばかりで、ついに意を決して花束を彼女に渡した。ところが彼女がパトリックに言った言葉は「お父さんによろしく」だった。身体検査の時、ジュリアンの身体が生傷だらけなのが発見され、彼の母親と祖母が幼児虐待の罪で逮捕された。学期末最後の日、リシェ先生は経験と心情を踏まえて子供たちに大演説をぶった。子供たちはその言葉をしっかりと受けとめたようだ。待望の夏休みはメランドール林間学校で過ごすことになった。そしてパトリックはマルチーヌ(パスカル・ブリュション)という可愛い子と知り合い、友人たちのひやかしを受けながら初めてのキスを体験するのだった。


キャスト(役名)
Geory Desmouceaux ジョーリー・デムソー (Patrick)
Philippe Goldmann フィリップ・ゴールドマン (Julien)
Richard Golfier リシャール・ゴルフィー (Richard)
Sylvie Grezel シルヴィー・グレセル (Sylvie)
Pascale Bruchon パスカル・ブリュション (Martine)
Claudio et Franck de Luca (De Luca)
Laurent Devlaminck L・デブラミンク (Laurent)
Eva Truffant エヴァトリュフォー (Patricia)
Bruno Staab (Childrens)
Corinne Boucart (Childrens)
Le Petit Gregory (Childrens)
Sebastien Marc (Childrens)
スタッフ
監督
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
製作
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
脚本
Francois Truffaut フランソワ・トリュフォー
Suzanne Schiffman シュザンヌ・シフマン
撮影
Pierre William Glenn ピエール・ウィリアム・グレン
音楽
Maurice Jaubert モーリス・ジョーベール

Charles Trenet シャルル・トレネ
美術
Jean Pierre Kohut Svelko ジャン・ピエール・コユ・スヴェルコ
編集
Yann Dedet ヤン・デデ

映画”存在の耐えられない軽さ” アリアドネ・アーカイブスより

 
”存在の耐えられない軽さ”とは、本当は共産主義という名の官僚主義社会がどのように市民を扱ったかということ、さらには”正常化”という名前の下でなされた抵抗勢力への分断化された日常的時間の持つ散文性にあったのだと思う。

ソヴィエト軍チェコに侵入した日のことは鮮明に覚えている。太平の世を貪る日本の日常的な時間の中ではテレビが映し出す戦車の連なりは何とも異様であった。戦後東欧における共産主義社会の優等生と言われたこの国を襲った事態をチェコ国民は予想しなかったし、日本から見るチェコスロヴァキアという国は霧の彼方だった。この映画はもう一つの”ドクトル・ジパゴ”という意味では”プラハの春”が何であったかの記憶をとどめるものとして評価できる。特に映画の中盤、ドキュメンタリー映像の中に登場人物の二人を映しこんだと思われる映写技法には、不思議な感銘を受ける。

存在の耐えられない軽さとは、医師トマシュの自由・奔放な生き方が、それはチェコの政治的現実の中でこそ意味を持ちうるものであり、西側の――たとえばジュネーヴでは何の意味も持ちえなかったことの意味なのである。この点アメリカ側の制作スタッフには根本的な誤解があったようだ。


付説・1【サビーナの涙】
自由奔放な医師トマシュの最大の理解者として紹介されるサビーナというアーティストが、亡命したジュネーヴで、付き合っていたアムステルダムの大学教授が、妻と離縁してきたことを語り求愛を求められ、はらはらと涙を流す場面がある。

この場面の解釈が大変難しい。
自分たちの生き方が西側の世界では、陳腐な不倫物語に堕してしまったことと、善意の人間を巻き込んでしまった悔悟の情が混じった複雑な感情であると思う。また、テレーザと二人でヌード写真を取り合う場面があるが、お互いに裸になりきった二人が心から笑い転げる場面がある。この笑いの持つ底知れぬ悲しみについても、チェコの現実を考えないと理解できない。

最後に二人の突然の訃報を受け取ってサビーナが悲しみをこらえる場面があるが、これも愛憎からんだ友人関係の回顧というよりは、政治的同志の死を悼む、という感じが強い。愛が政治であり、政治が愛であった時代があったのである。愛から政治を分離し、政治と愛という形で語ることは虚しい。

付説・2【正常化という名の現実】
亡命という名の政治的選択の自由を捨てて、”弱い国”すなわちプラハの現実に生きる事を選んだ二人だが、パスポートも奪われ職業の自由もなかった。可視化された官僚制の怖さを描いた一端は、トマシュとテレーザがそれぞれ誘惑を受ける場面に恐るべき姿を現す。

窓ふき職人となったトマシュを誘惑する高級官僚のマダムの部屋には、ブレジネフが一緒に映った写真が飾られ、どういう履歴の女性であるかが語られている。またテレーザの場合は、バーで女給をしていた彼女に若者が絡み、再度絡んでくる明らかに体制派と思われる密告者の存在があり、その二度とも助けてくれた”正義の味方”のような一見誠実そうな技術者こそ、政治的な工作員であったことが暗示される。抵抗者の意思が剛である場合は、色仕掛けで、さらには密告、ゆすりという政治的な手段が続く、というわけである。

この映画は事故にあう直前の至福に満ちた最後の二人の映像を流して終わっているのでハッピーエンドではないかと思っている解説もあるようなので一言いっておかなければならない。共産主義社会では最後は”交通事故死”というのが常套手段なのである。事故死が伝えられるところではどこでも、やっぱりそうだったのか、とみんなが思うのである。


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<あらすじ>
68年のプラハ。トマシュ(ダニエル・デイ・ルイス)は、有能な脳外科医だが、自由奔放に女性とつき合っている独身のプレイボーイ。画家のサビーナ(レナ・オリン)も、そんな彼の数多い女ともだちの1人。2人が逢う時は、必ず、サビーナが大切に保存している祖先から伝わる黒い帽子と楕円形の鏡がそばに置かれていた。ある日トマシュは出張手術に行った先でカフェのウェートレス、テレーザ(ジュリエット・ビノシュ)と出会う。トマシュの本を読む姿に惹かれたテレーザは、トマシュのアパートに押しかけ、2人は同棲生活を始める。トマシュにとっては、初めての女性との深いかかわりだった。トマシュとサビーナの計らいで写真家としての仕事を始めたテレーザ。トマシュは、相変わらずサビーナとも逢い、一方で、共産主義の役人たちを皮肉ったオイディプス論なども書いていた。やがてソ連の軍事介入--チェコ事件が始まり、サビーナは、プラハを去り、ジュネーブへと旅立つ。追いかけるようにしてトマシュとテレーザもジュネーブヘ向かう。相変わらず女性と遊んでいるトマシュにイヤ気がさし緊迫したプラハへと戻ってしまうテレーザ。大学教授フランツ(デリック・デ・リント)と交際していたサビーナもアメリカへと去る。テレーザを追ってプラハに戻ったトマシュだったが、プラハは以前のプラハではなかった。オイディプスの論文が原因で外科医の地位もパスポートも失ったトマシュは、テレーザと共に田舎に行き、農夫としてひっそりと暮らし始める。カリフォルニアで新生活を始めていたサビーナのもとに1通の手紙が届いた。それはトマシュとテレーザが事故で突然死んだという知らせだった。


キャスト(役名)
Daniel Day-Lewis ダニエル・デイ・ルイス (Tomas)
Juliette Binoche ジュリエット・ビノシュ (Tereza)
Lena Olin レナ・オリン (Sabina)
Derek De Lint (Franz)
Erland Josephson エルランド・ヨセフソン (The Ambassador)
Parel Landovsky (Parel)
Donald Moffat ドナルド・モファット (Chief Surgeon)
Daniel Olbrychki (Interior Mimistry Official
Stllan Skrsgard (The Engineer)
スタッフ
監督
Philip Kaufman フィリップ・カウフマン
製作
Saul Zaentz ソウル・ゼインツ
製作総指揮
Bertil Ohlsson バーティル・オールソン
原作
Milan Kundera ミラン・クンデラ
脚本
Jean Claude Carriere ジャン・クロード・カリエール
撮影
Sven Nykvist スヴェン・ニクヴィスト
音楽
Leis Janacek
Alan Splet アラン・スプレット
美術
Gerard Viard ジェラール・ビアール
編集
B. J. Sears B・J・シアーズ
Vivien Hillgrove ヴィヴィアン・ヒルグローヴ
衣装(デザイン)
Ann Roth アン・ロス
録音
David Parker
Todd Boekelheide トッド・ボークルヘイド
字幕
進藤光太 シンドウコウタ
 

トリコロール三部作”青の愛”をみる アリアドネ・アーカイブスより

 
キエシロフスキのトリコロール三部作は、”赤の愛”に続いて二作目ということになる。
”赤の愛”では運命の糸のように赤い糸が経巡り、人々の離散と結合を条件づける。”青の愛”では有能な作曲家である夫と幼い娘を交通事故で亡くした女性の再生までの道のりを描いている。

この映画の中で過不足なく語られているのは田舎の邸宅を去ってパリに一人住むことになったアパルトメンの下階に住む売春婦の若い女性との交流であろう。ある夜、何の接点もない彼女から深夜呼び出しを受ける。言ってみると彼女の職場は場末のストリップ小屋で、彼女は娘の動向を探りにきた父親と舞台で鉢合わせする破目になる。彼女の立場では今日一日のステージを阻むこともできず、その悲しみを誰かに伝えたくて電話をしたというのである。彼女は一夜の、無償の人の善意にかけたのであろう。人生を御破算にするつもりの主人公にとってもこの夜は何らかの影響を与えただろう。

過去への傷心に苦しむヒロインに追い打ちをかけるように、過去死んだ夫に秘密の恋人がいたことが明らかになる。こうして幸せな家族の記憶は、物質的な意味でも精神的な意味でも奪い去られることになる。

彼女にはほのかな思いを寄せる夫の友人がいる。すべての記憶とともにこの世から抹殺するつもりでいた亡き夫の未完成の協奏曲をその友人が完成すると聞いてヒロインは動揺する。しかし協奏曲をその友人と合作するうちに次第に彼の愛を受け入れるようになる。

愛は寛大ですべての存在に許しと慰藉を与える。亡き夫の愛人のお腹には子供の存在が。彼女は家屋敷をすべてこれから生まれ出でようとする未来の子供に譲る決意を選択する。



あらすじ
ジュリー(ジュリエット・ビノシュ)は自動車事故で夫と娘を失う。夫は優れた音楽家で欧州統合祭のための協奏曲を作曲中だった。ジュリーは、田園地帯にある屋敷をすべて引き払い、それまでの人生を拾ててパリでの新しい生活を決意する。そして夫の未完の協奏曲のスコアも処分してしまう。ジュリーは、空っぽになった家に密かにジュリーに思いを奇せていた夫の協力者であったオリヴィエ(ブノワ・レジャン)を呼び出し、一夜を共にするが、かれの目が覚める前に家をあとにする。手には彼女と過去を結ぶ唯一のあかし、“青の部屋"にあったモビールを握っていた。パリでの生活を始めるジュリーは静かな毎日を過ごしながらも脳裏にはあの旋律が甦ってきて、焦燥感と不安に駆られていた。老人ホームにいる母親(エマニュエル・リヴア)もジュリーを虚ろな目で見ているだけだった。そんなある日テレビをつけるとオリヴィエが処分したはずの楽譜を持ち、自分が曲を仕上げると宣言しているのを見る。そして夫が見たこともない若い女性と写っている写真も公開されていた。大きな動揺の後、ジュリーは、オリヴィエに曲の手直しを夫のメモを元に指示し、また夫の愛人で彼の子を身ごもっているサンドリーヌ(フロランス・ぺルネル)に屋敷をゆずる。ついに完成した曲をオリヴィエは、ジュリーの作品として発表すべきであると言う。ジュリーは、ひとしきり考え、彼の元に向かうことを、彼の愛を受け入れることを決意する。



解説
フランス国旗を構成する三つの色をモチーフにキェシロフスキが監督した「トリコロール」三部作の一作目。監督のクシシュトフ・キェシロフスキは、ポーランド人で、70年代を通じて数多くの短編ドキュメンタリーを手がけ、「アマチュア」、「殺人に関する短いフィルム」、「ふたりのベロニカ」などで国際的名声を得ている。74年の『終わりなし』からポーランドを代表する弁護士にして理論家のクシシュトフ・ピェシェヴィチとの共同脚本作業を始める。製作はマラン・カルミッツ、エグゼクティヴ・プロデューサーはイヴォン・クレン。また音楽のズビグニエフ・プレイスネル、撮影のスワヴォミール・イジャックは、それぞれポーランドで数多くの作品を手がけていて、キェシロフスキとも長年ともに作品を手がけている。出演は、「存在の耐えられない軽さ」、「ポンヌフの恋人」、「ダメージ」の現在フランスを代表する女優ジュリエット・ビノシュ。舞台俳優として高い地位を得ており、ジャック・リヴェット監督の「彼女たちの舞台」で映画俳優としても活躍し始めたブノワ・レジャン。そして脇もエレーヌ・ヴァンサンやエマニュエル・リヴァなどの演技派俳優で固められている。


キャスト(役名)
Juliette Binoche ジュリエット・ビノシュ (Julie)
Benoit Regent ブノワ・レジャン (Olivier)
Helene Vincent エレーヌ・ヴァンサン (La Journaliste)
Florence Pernel フロランス・ペルネル (Sandrine)
Charlotte For (Lucille)
Emmanuelle Riva エマニュエル・リヴァ (La mere)
Hugues Quester ユーグ・ケステル (Patrice(mari de Julie))
Philippe Volter フィリップ・ヴォルテール (L'agent immobilier)
スタッフ
監督
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
製作
Marin Karmitz マラン・カルミッツ
製作総指揮
Yvon Crenn イヴォン・クレン
脚本
Krzysztof Piesiewicz クシシュトフ・ピェシェヴィチ
Krzysztof Kieslowski クシシュトフ・キェシロフスキ
撮影
Slawomir Idziak スワヴォミール・イジャック
音楽
Zbigniew Preisner ズビグニエフ・プレイスネル
編集
Jacques Witta ジャック・ウィッタ
録音
Jean Claude Laureux
Claude Lenoir クロード・ルノワール
字幕
古田由紀子 フルタユキコ

若者は最高の教師である

若者は最高の教師である

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 表記の事を常々想うようになったのは、年齢のせいもあるのかもしれない。或いは、青春は最高の教師である、と書くこともできたかもしれない。こちらの方が趣旨と含意をより伝えてくれていると思う反面、自分には青春などなかったと言いたい人もいるだろうから 表記のようにしてみた。どちらでもよいような気がするが、かつて若者であった事を否定する人はいないであろう。こちらの方が平等で良いと思った。

 

 いろいろと前段で書いてはみたが、言い訳が長くなったのは、表記のものが半ば反語にも聴こえるからだろう。反語の反対はなんと言うのか知らないが、仮に順語として 逆らわぬ表現は、人は歳を取るに連れて成熟していくものだと言う通念があろう。しかし成熟ではなく、純度としてはどうなのだろう。歳を経てこの歳になって歳月を顧みるに、若者たちであった頃の自分たちの純度には敵わない と言う気がする。

 

 人は歳を経て豊かな経験知に支えられて成熟と言う段階に達すると言うのだが、ーー一個の生涯と言う枠に拘らずに生きられた世界と時間の純度と言うものを考えた時に、成熟によって得たものと失ったものとの関係はどうなのだろうか、そんな事を考えてしまう。

 

 青春への慕情とは、単に失われたものへの愛惜や理想化だけではない。生涯という名の濁りを含んだ滔々として流れる大河の岸辺に佇って、流れ去る時間性の相において見るとき、あの時生きた、自分自身を除く若者たちの姿は群像と化して尊く、教師であるように見える。そうした帰り行くべきものと場所への敬意が 錨を下ろした舟の感覚のようなものとして自分のなかにある。

 

 こんな事を思うようになったのは、あのゲーテの怖しい書 『親和力』を読むようになってからであったかもしれない。或いは人生の成熟と純度を混同する事なく考えたヘンリー-ジェイムズの書物群の影響があったのかもしれない。或いは半世紀以上も前に読んだーー今日では半ば忘れ去られつつあるフランス人女流作家フランソワーズ-

サガンの『ある微笑』のなかで描かれた真実ーーどのような生涯軸に於ける痛切な経験もモーツァルトの一つのフレーズに及ばないーーと言うイロニーを私に思い出させる。