アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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若者は最高の教師である

若者は最高の教師である

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 表記の事を常々想うようになったのは、年齢のせいもあるのかもしれない。或いは、青春は最高の教師である、と書くこともできたかもしれない。こちらの方が趣旨と含意をより伝えてくれていると思う反面、自分には青春などなかったと言いたい人もいるだろうから 表記のようにしてみた。どちらでもよいような気がするが、かつて若者であった事を否定する人はいないであろう。こちらの方が平等で良いと思った。

 

 いろいろと前段で書いてはみたが、言い訳が長くなったのは、表記のものが半ば反語にも聴こえるからだろう。反語の反対はなんと言うのか知らないが、仮に順語として 逆らわぬ表現は、人は歳を取るに連れて成熟していくものだと言う通念があろう。しかし成熟ではなく、純度としてはどうなのだろう。歳を経てこの歳になって歳月を顧みるに、若者たちであった頃の自分たちの純度には敵わない と言う気がする。

 

 人は歳を経て豊かな経験知に支えられて成熟と言う段階に達すると言うのだが、ーー一個の生涯と言う枠に拘らずに生きられた世界と時間の純度と言うものを考えた時に、成熟によって得たものと失ったものとの関係はどうなのだろうか、そんな事を考えてしまう。

 

 青春への慕情とは、単に失われたものへの愛惜や理想化だけではない。生涯という名の濁りを含んだ滔々として流れる大河の岸辺に佇って、流れ去る時間性の相において見るとき、あの時生きた、自分自身を除く若者たちの姿は群像と化して尊く、教師であるように見える。そうした帰り行くべきものと場所への敬意が 錨を下ろした舟の感覚のようなものとして自分のなかにある。

 

 こんな事を思うようになったのは、あのゲーテの怖しい書 『親和力』を読むようになってからであったかもしれない。或いは人生の成熟と純度を混同する事なく考えたヘンリー-ジェイムズの書物群の影響があったのかもしれない。或いは半世紀以上も前に読んだーー今日では半ば忘れ去られつつあるフランス人女流作家フランソワーズ-

サガンの『ある微笑』のなかで描かれた真実ーーどのような生涯軸に於ける痛切な経験もモーツァルトの一つのフレーズに及ばないーーと言うイロニーを私に思い出させる。