アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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レデントーレの岸辺に――かたちあるものとかたちなきもの(2009/3)アリアドネアーカイブスより

レデントーレの岸辺に――かたちあるものとかたちなきもの(2009/3)アリアドネアーカイブより
2019-08-26 17:01:06
テーマ:アリアドネアーカイブ


原文:
https://ameblo.jp/03200516-0813/entry-12505534776.html
レデントーレの岸辺に――かたちあるものとかたちなきもの 
2009-03-22 07:53:55
テーマ: 須賀敦子
2009/3)
3月22日 日曜日 曇り 雨になりそうな朝 泣き出しそうな春の朝 昨夜初めてマイスター・エックハルトの文献を拾い読みする。良く分からない、気が重いのである。かたちあるもの、とは無なのだ、エックハルトを持ち出すまでもなく、キリスト教においては。「無」という言葉を私は警戒する。「無」を名指すときの「我」とは、どういう構造になっているのだろうか。わたしたちは正しい行いをすることはできない、行為が私たちの魂の中で正しく生きることがあるだけなのである、というのも同様の趣旨なのだろう。

対象を、名指すことに対する私自身の困惑!いまならこれを、カントなら「現象」、ヘーゲルなら「既成性」、マルクスなら「物神化」、ルカーチなら「物象化」、ウエーバーなら「理念型」と、多少比重の置き方は異なるが、少しは関係がある言葉であることが理解できる。西欧的なものの考え方はこの概念を中心に展開しているような気がしてならない。

私は一昨日須賀敦子の死を大いなる振幅運動の中の、幻視の彼方にみた。しかしこれは誤解を生む観念だろう。というのも彼女の死が振り子運動の一方の極に振れたのは「偶然に」であって、ここからキリスト者としての須賀敦子の生涯を語ったつもりはなかった。

須賀敦子は書いている。―-死は、もしかしたら、物質の廃頽によってひきおこされた空虚な終末などではないのかもしれない、・・・・わたしたちは記憶の領域にその実在を移したときに、はじめてひとつの完結性を獲得するのではないのか、と。彼女たちの住む神々の廃墟に慰められて、私は立っていた、レデントーレの岸辺に。

キリスト者としての須賀敦子の終焉がいかようなものであったのか。私はものを書くとき原典にあたる習慣がないので引用は正確でないかもしれない。しかし彼女が、一人のカソリックとしての完成の間際にまで近づいていたというようなことは、キリスト者ならずとも理解できようにも思うのである。