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野島秀勝”ヴァージニア・ウルフ論”――美神と宿命 アリアドネ・アーカイブス

野島秀勝”ヴァージニア・ウルフ論”――美神と宿命
2010-02-07 15:53:19
テーマ:文学と思想

現代文学近代文学の境をどこに置くか。その答えは、例えば――ヴァージニア・ウルフの”現代小説論”が出版され、ベネット、ゴールズワージィ、ウェルズ等のエドワード朝・ヴィクトリア朝の小説作法に対する疑念を述べた時に始まる、としても大きな反対は無いだろうというのが現代イギリス文学を専攻するものとしての作者の見解である。

さて、この書もまた近代社会の時間概念の変遷の中にウルフの文学的な位置を見定めようとする異常にヴォルテージの高い力作である。問題は多義にわたるがおもしろかったのは作者の二項概念、センスとセンシビリティ、キャラクターとパーソナリティ、要するに外部と内部ということである。”センスとセンシビリティ”とは高名なジェイン・オースティンの小説の題名でもあるのだが、あの小説の場合は姉のエリナーがセンスつまり感性におけるコモンセンスを、妹のマリアンヌがロマン的な熱情を代表していた。

現代文学とは、個的な意識の発達による市民社会から後に自意識と呼ばれるものが自生していく過程であるともいえる。近代文学現代文学の違いは明確な社会と呼ばれる外部の対象性をしかと見定めて個人の自立を描く市民社会上昇期の文学、例えばブロンテ姉妹の文学と、その結果獲得された自意識と呼ばれたものが外的な対象性を失い自己呪縛に陥る袋小路を描いた文学というよりは一種の精神病理学的な臨床報告、例えば”マルテの手記”におけるリルケのようなものと考えても良い。もちろんウルフはリルケの同時代人であった。

200ページに満たないとはいえ、この異常な熱気に侵されたこの本を読むのは容易くは無い。一方では政治の時代とも言われた60年代とは熱き時代でもあった。そうした回顧的な感じを持つたのは文学を学問的に、とは認識論的に説明しようとする手法である。例えばこの本を代表する基調は次のような記述である。

”ひとびとがある共同社会に充足して生活している場合、彼の時間とその社会の時間とは同じ密度と速度で流れている。社会の動きのリズムは正確に個人のリズムであるはずだ。たとえば原始社会にあって、その祭式行事は個人、社会双方の時間をリズムずけ区切っていた。そこでは、原理的にいえば個人の時間というようなものは存在しなかった。すべては社会の時間であった。それは”内”と”外”との乖離が存在しなかったということでもある。無論、逆も真だ。この時間が、それ独自の、社会と隔絶した時間を刻むのは、個我の出現と同時であった。崩壊する中世秩序のさなかに個を意識したルネサンス、英国でいえばエリザ朝、ジェイムズ朝がいかに「時間」に憑かれた時代であったかを想起しよう。そしてルネサンスにおいて自覚された個我意識は急速に「アウトサイダー」の意識と化していった。つまり「内」の時間は精妙に孤独を刻んで行ったのである。この「時間」のコンテクストで考えれば、あの「感性の乖離」とは「内」の時間の自覚、とそこにおいておこってきた「外」の時間との異和疎外に他ならず、逆にオースティン流の「センス」とは「内」の時間を「外」の時間に合体させようとする一つの意志ではなかったか。”

ジョイスプルーストを経験したものにとって半分はそうだろうなと思う。1960年代になっても、例えばヌーヴォー・ロマンと呼ばれた人たちの文学観はこれと大きく変わるものではなかった。しかしヌーヴォー・ロマンの文学やサルトルの”嘔吐”などはその後急速に影響を失ったが、ヴァージニア・ウルフの文学はそうではなかった。その秘密は何だろうか。

”波”や”灯台へ”に出現した文体はすでに”意識の流れ”や”内的独白”というようなものではない。野島の世代の文学者は”内”と”外”と言うけれども、また自意識の自己呪縛などというけれども、とりわけ後者の言い方は小林秀雄などが好んだ言い方なのだが、”外”に準拠する”内”などもあったかどうかは甚だ疑問のである。

近代や現代の文学者が好む内的な世界や内面の確固たる不動性も甚だ疑わしい。リルケは自意識を蝸牛の殻のようなものだと表現したがそこには個人の罪苦と矜持を同時に表現していた。個人が自意識という最後の砦に籠るのは良いのだが、かれらは砦の自足性について疑うことは無かったのだろうか。私は我が国の文学愛好家がいまだに小林秀雄の自意識のあたりをうろうろしている心情が理解できないのである。

ヴァージニア・ウルフが開いた絢爛たる小説世界は、哲学的あるいは認識論的な説明は不要である。一見して読解を困難ならしめる語彙とイメージの氾濫、自立した象徴の世界。現実とは隔絶したウルフの文学的宇宙。そして59年間の生涯が描いた夢と希望。そして明確なストア的意思によって選び抜かれたオフィーリアとしての死、私のヴァージニア・ウルフはこれだけで十分である。

最後に意識の流れについて書いておきたい。
通常リアリズムは日常の”経験”なり”現実”から出発する。その理論的な純化の過程である近代自然科学においては”物質”にまで還元、遡行する。幻想や空想と呼ばれるものも、日常的時間の安定性の上に初めて花開く。

ヴァージニア・ウルフの試みとは、かかる”経験”や”現実”性、つまりリアリティと呼ばれるものを構成する要素を解体して、日常性が立ち上がってくる瞬間を描こうとしたのである。文字とは意味を持つ、もちろん現実や現象に対して。しかしウルフ的な世界においては対象性がないのであるから言語的世界が成立しないのである。

われわれは通常は意識しないのだが、一人でいる時間を考えてみたい。特に何か惑わすような心配事がなければ時間は無為に過ぎて行く。ここに小説的テーマやドラマはない。しかし意識の流れという手法に準拠すれば多くの文学解説者が絵解きしているように、綿綿として内的モノローグの世界が続いているのだろうか。

ウルフが描こうとしたのはこのような内的モノローグが成立する以前の先‐言語的な世界の意識の糸の縺れ合う事象であった。内的独白といえども、理知による統覚がある。つまり言語による秩序だての中で言語は初めて意味を持ちうる。言語未生の世界を言語で描こうとするならば、それは象徴やイメージ、つまり散文ではありえなかった。小説は散文で書くものだという人々の思い込みを訂正することにウルフの意義はあった。かってジェイムズ・ジョイスは”ユリシーズ”において描かれる対象ごとにそれに相応しい文体というものがありうるということを提案した。ヴァージニア・ウルフはそれを文字通り理解して人間存在の真実を描くのに最適な文体を提案したのである。


野島秀勝”ヴァージニア・ウルフ論”1962年第一版(1981年第四版) 蠧遽斉