アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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プルーストにしばしの別れを アリアドネ・アーカイブス

プルーストにしばしの別れを
2010-10-16 22:47:46
テーマ:文学と思想


失われた時を求めては”しばしば、哲学的な作品であるとも、文藝批評を持ちこんだ作品とも言われるが、作品の上梓から一世紀近くもたつとこの両者の関係はどうなのだろうか。小説と哲学的な考察が一体になった作品であるとする美辞麗句だけで済ませてよいのだろうか。

失われた時を求めて”の特質は以下の二点にあると思われる。
一つは、意志的記憶に対する無意識的記憶の優位、より正確にいえばマルタンヴィルの鐘楼や三本の木等の諸現象や挿話が啓示する神秘についての哲学的な考察である。
二番目は、現代の旧約的詩篇としての”時という名の場所に位置を占める巨人族”の物語である。物語終結の大団円における華麗なゲルマント大公邸における夜会の描写、プルーストのリアリズムの迫力は、あらゆる説明を不要のものとする。

前者をプルーストの批評ならびに哲学的な認識能力、後者を客観小説としての表現性という風に考えた場合、批評文学や哲学的文脈が構成する叙述は後者の形象性に劣る。これをゲオルグルカーチにならって認識に対する形象的認識の優位と呼んでも良い。

“スワンの家の方へ”においてプチット・マドレーヌの挿話が語っていた五感の中でも特に卓越していた味覚と嗅覚という内感の形式の小説後半部以降にかけての後退と、五感の他の形式、マルタンヴィルの鐘楼や三本の木が示す視角静性、ナプキンで口をぬぐう感覚がもたらす触覚性、コーヒー茶碗にスプーンが接触する聴覚等主として外観の形式の連呼、いっけん五感の順不同を無視したかのような均一性と、諸無意識的記憶群の羅列とは、無関係とも思えない。

無意識的記憶の再現がなぜ歓びをもたらすかの理由についてプルーストが与えた結論は、それらが時を超えた永遠性に達している、つまり現在という時制に拘束を受けない永遠性を実現しているがゆえに、死の不安もまた克服されたと感じるのである。これがプラトン以来のイデア論への単純なアナロジーであることは容易に予想がつくことであり、余りにも素直な西洋的な伝統への回帰であるような気がする。

最も有名なプチットマドレーヌと一杯のお茶がもたらした根源的な歓喜がもたらす意義についてプルーストの考察は、現象と本質という使い慣れたプラトン以来の伝統的な思考の類型に結論を自己預けることに疑問を感じていないかのごとくである。しかし人が生きている根拠とは、何も偉大な哲学的な思想に到達することでもなく、日常性の背後にあるいは超越的な偉大な啓示を受けることでもない。日々のたまさかの経験の中に、ああ、生きているのだということを実感する時がある。それは声高に主張されるわけでもなく明示的に示されるわけでもなく、どちらかといえば最もプライベートな他に伝え難い経験のような気がする。プルーストは偶然性や瑣末な日常性がもつ意義を過小評価しなかった点でカントと並んで歴史上優れた思想家の一人として数えられると思うのだが、十分な徹底性をもって自覚的に貫いたかという点を問題にしているのである。

彼岸性に対するこの此岸性、最も個的な私秘的な経験を捉えてインマヌエル・カントは趣味性として一般化した。またハンナ・アーレントはカントに唱和する形で彼の政治哲学に関する注釈の中で述べている、――なぜ特定の人は牡蠣を好みそうでない人もいるのか、と。自明過ぎて議論にならないような気がするのだが、しかしこの取るに足りない瑣末な出来事を、最晩年のカントは大いなる驚きをもって関心の中心に据えていたらしい。

主観的であってなお主観性に尽きぬもの、主観的であるとも客観的であるともいえないもの、中世以前の人間であるなら魂とか聖霊とか名づけることが可能なのであるが、蜘蛛の糸のように儚くもありながら風にそよぎ、それでいて揺るぎない頑固で執拗な生きていることの根源こそ人間的実存の根拠、人が人であることを開示する、もしかして偶然に叩き廻り合えた稀有の秘密の扉の如きものではなかったのだろうか。

同様のことを、プルーストもまたプチット・マドレーヌの挿話に続いて、このように語っている。――

”・・・・・人々が死にたえ、ものは壊れ、古い過去の何ものも残っていないときに、脆くはあるが強靭な、無形ではあるが、もっと執拗で忠実なもの、つまり匂いと味だけが、なお長い間魂のように残っていて、ほかのすべてのものが廃墟と化したその上にで、思い浮かべ、待ち受け、期待しているのだ、その匂いと味のほとんど感じられない雫の上に、たわむことなく支えているのだ、あの巨大な思い出の建物を。”

失われた時を求めて”の中の重要な場面では必ず出てくる表現、人間の存在以前の非個性的な等価物、というようなプルーストの表現にどうか注目していただきたい。プチットマドレーヌ等の諸挿話は単に感覚や印象、記憶や思い出といった主観的な根拠として語られているわけではないのである。”失われた時を求めて”という時の経験と時間の構造物を支えているものは、主観性に根ざすものでありながら主観的なものでも客観的なものでもない、それでいて個人の私性に尽きぬもの、古典古代の人間や中世のキリスト教徒が魂と名付けたものに近かったのであるが、それを必ずしも時を超えた永遠、プラトンイデアの如きものに結びつける必要はなかったのである。

かってメゼグリーズの散歩道でのサンザシと少年の出会いは謎を背後に秘めた開示なのではなく、それ自体が充足したこれ以上遡れない歓びの根源の如きものであった。このとき時は満たされ、時の充実が延命をこいねがうほどの生の横溢として現れるのである、千夜一夜を芸術と語りの力で生き延びたシエラザードのように。