アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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"失われた時”と”見出されたとき”――プルースト断章・Ⅱ アリアドネ・アーカイブス

"失われた時”と”見出されたとき”――プルースト断章・Ⅱ
2010-09-28 10:48:14
テーマ:文学と思想

 

失われた時を求めて”という表題が適切であるのかどうか、そのことを少し考えたい。
”失われた時”とは当初、第一巻”スワンの家の方”などと読むと、見出されなければならぬ遠い過去の真実、であるように思える。ここから有名な無意識的回想に関する言説、理知の光に照らされた的記憶は過去を保存しないけれども、唯一無意識的記憶のみがそれを与える、という説明がなされる。

意志的な回想に対する無意識的回想の優位、これはこれでよいのだが、”失われた時”がその恐るべき姿を現すのは第七巻”見出されたとき”末尾のゲルマント大公の晩餐会の場面である。プルーストの秀逸な比喩は、ここでは時の経過がもたらした変化を仮装舞踏会に例える。時間の経過が一人ひとりの人物にもたらした刻印、そのわざとらしさ、不自然さの原因はなんだろうか。プルーストはその原因について語らないけれども、ここにおいて長大な小説において今まで語られた現実が一変して非現実へと変化する破壊の力学、凄まじい迫力で迫る場面である。

思えばプルーストには不思議な愛の認識論があった。
それは不在のものへの愛、愛はそれを生き得るとき語りえない、という逆説である。例えが適切ではないが、真実とはシャーベットのようなもので認識という名の光源、理知という名の蝋燭の炎を近づけてみようとすると溶け出して何時しか蒸発してしまうのである。それゆえ恋人の顔と形を正確に思い出すことが出来るのは、恋が終焉した後、即ち忘却という名の罪業、時間のふるいに掛けられて練磨され、それが当人に何の感慨をも及ぼさなくなったとき、すなわち第三者観照に委ねられる時にほかならない、とプルーストは言うわけである。

ゲルマント大公の晩餐会がプルーストの愛の認識論一般を超えて凄まじいのは、これが”スワンの恋”のような個別事象の解剖学的観察記録ではなく、サロン社会の全体、あるいはプルーストの生きてきた現実性全体にこの逆転劇が適用され、現実そのものが死臭を帯びた末期的痙攣と硬直化を帯びるときである。その時あらゆる世事の騒音ややむ。時の建造物とは所詮は空洞なのであり、聳えるまでの高さが大きく足元から揺らぐとき、今まで聞こえてこなかった真実の声が聞こえてくる、というのである。

失われた過去は見出される必要が無く、われわれの外なる人生を取り巻く雑多な環境、サロンでの儀礼やお付き合いとか生きていくための生業とか、はたまた社会的変動であるとか政治的事件であるとかの諸事の煩雑にかき消されて、それらが沈黙した夕べにはちょうどミレーの”晩鐘”のように、教会の鐘の音は決して鳴り止むことは無く低くつぶやき続けていたのである。

鳴り止まぬ裏木戸の鈴の音と、時間という場所に占める巨人たちの雄渾な叙事詩、その栄光と悲惨を英雄的な一篇の旧約的詩篇として語ること、それが物語作者としてのマルセルの位置であった。