アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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青春文学というものの難しさ――”ライ麦畑でつかまえて”と”ノルウェイの森”を手掛かりとして アリアドネ・アーカイブス

青春文学というものの難しさ――”ライ麦畑でつかまえて”と”ノルウェイの森”を手掛かりとして
2010-12-31 14:49:51
テーマ:文学と思想

こんな風なタイトルでものを書けば、内容まで解ったような気分にさせられてうんざりしますね。ついでにもう一つ付け加えれば、ハリウッド映画+名子役という組み合わせはどうでしょうか、これから書こうとすることもそれらとそう多くは違ったことではないのです。なんだ、といわれない前に書いておきますね。

サリンジャーの”ライ麦畑でつかまえて”と映画”ノルウェイの森”を立て続けに読み、みました。前者は、日曜日に遊園地だったかに向かう子供には無関心であるかに見える親子三人組みがあって、その子供が歩道の車道側をいかにも頼りなくふらふらと歩いていく風景と、最後のクライマックスで、このシーンを書くために長い叙述があったのだと思わせる、表題の由来にもなった、不安定な精神をしっかりとこの世に繋ぎとめる、そんな仕事があるのならそんな仕事をしたいと主人公が妹を相手に語る場面ですね。この場面の少し前には、いじめにあった少年の飛び降り自殺するシーンがあります。これを主人公が人事と感じることが出来ないのは、親しいわけでもなかったその少年に頼まれて自分のセーターを貸していたからなのですね。しかも自分のセーターを着て少年は飛び降り自殺をするのです。コンクリートの床に打ち付けられたその遺骸は目の玉が飛び出して肉片が飛び散って悲惨なものだったらしいのですね。有名な場面はこの悲惨な場面の直ぐ後にカタストロフィーのように描かれています。ひとは根拠もなくある日死を選ぶものですが、できれば憧れていくかのように旅立つ、そんな幼い魂を引き止めるような、そんな仕事がこの世にあるのなら、そんな仕事をしてみたいと、しっかりと追いすがるようにつかまえて、・・・・・ライ麦畑で。

映画”ノルウェイの森”は最初の三分の一ほどまでは退屈でした。俳優が素人っぽくて、それにドラマの設定自体も素人っぽくて、予想していた通りだったのですね。そしてこの手の映画にありがちな、絶叫等の口調と過剰演技が続くのですが、本来ならここで興ざめしてしまうところが、ところがそれが少し違っていたのですね。ツヅキ君の純粋さが理解できました。純粋な死という青春の無償さに直面したとき、自分が生きてることがわからなくなるという直子の絶望感がまざまざと目の前に浮かんできました。ある種の精神的な純度の高い出来事に出会うと、ひとは自分が生きていること自体が解らなくなるってことはあります。直子はこの精神の呪縛から逃れることが出来ずに狂気の世界に殉じることになるのですが、直子とはこの映画に描かれた60年代への隠喩であることが分かってからは、この映画でおきた世界が自分のことのように、するすると理解できるようになったのです。

ライ麦畑もノルウェイの森も、単なる俗世間に対する青春の優位を描いたという牧歌的な作品の印象だけではありませんね。ライ麦畑は最後の一ページにとんでもないどんでん返しが用意されていて、実は主人公が精神の病に犯されていたらいいということが明らかにされるのです。この場面を読むに及んで、サリンジャーに奉げていた一読者としての信頼は大きく損われることになるのです。サリンジャーは”神話”を教祖的に語るほどには厚かましくなかったということなのでしょうか。

同様のことは”ノルウェイの森”についても言えることです。最後に恋人の緑さんに電話をかける有名なシーンがありますね。一種のの通過儀礼を終えた主人公のワタナベ君は緑さんの受容的な愛に受け止められるという単純な話にはなっていないのですね。何気なく、電話の終わりに、”いま、あなたは何処にいるの?”と聞かれるのです。この台詞って、日常会話ではよく使いますよね。しかしワタナベ君はここで初めて、僕って誰だろうと思うわけです。いままで分かったつもりの自分自分自身が一瞬分からなくなるのですね。これは村上春樹が自覚して書いたこととは違うのかもしれません。小説の登場人物がひとり立ちして作者そのひとを乗り越えてしまうことがあるのです。そういう稀に見る稀有な場面に私たちは立ち会っているんだとおもうのです。

映画”ノルウェイの森”を見ながら感じたことは、登場人物の一人一人や場面や局面のいちいちについて、この映画制作者や背後に明瞭に感じ取られる作者はよく理解していないな、という感じでした。細部の理解がとっても雑なのです。人間としてのデリカシーの欠如といってもいい。しかし小説というものの持つ不可思議さは、デリカシーの欠如が人間としての欠点ではありえても、小説家としての欠陥にはなりえない点なのですね。結果として描かれ形象化されたノルウェイの森という物語的な世界は主人公ワタナベ君を中心に、生の世界を代表する緑さん、死の世界を代表するツヅキ君と直子さん、その両極の拮抗関係を中心に中間的に介在し両者を繋ぐものとしての多様な人物群を配置した、それなりに読ませうる作品になっているかならのです。むしろ小説家であることの資質とはデリカシーを欠く事、作者の主観的な意図を超えた物語的世界の住人たちが自主独立に自己を展開し、作者の思いもかけなかったロマネスクの世界を描き出しうることにある、とすらいえるほどなのです。

さて、1950年代と80年代、それはサリンジャー村上春樹とを隔てる年月ですが、これは見かけ上の長さであると思うわけです。ライ麦畑を読んでつくづくと感じたのはアメリカの豊かさでした。終戦から幾年もたってない1950年という年代にしてこの確固たる日常性の感覚、この揺ぎ無さを無視してはあのサリンジャー的な浮遊感、不良少年っぽい自在さはなかったと思うのです。同様に村上春樹的な虚無性も80年代の安定感無しにはありえなかったと思うのです。60年代の激動、それは遠い追憶としてありました。その儀礼的儀式として村上春樹はワタナベ君とレイコさんとの一夜を憎らしいほどの技巧をもって描き出しました。これは駄目押しと言っても良いほどのあくどさでした。しかし私は思うのです――。人間としてのデリカシーの欠如は最終的には物語的世界の限界になりうるのではないのか、と。