アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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森有正 ”遥かなノートルダム” について アリアドネ・アーカイブス

森有正 ”遥かなノートルダム” について
2012-01-29 16:06:38
テーマ:文学と思想

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 森有正の ”経験”に至る思索を語るためには、それに先立つ ”感覚” の発見が重要なのだろう。彼はフランスに於いて、感覚とはどういうものであるかを発見する。それは彼も云うように ”冒険” と”内的促し” の過程であった。この発見のおかげで彼はフランスから帰れなくなった。永遠にパリから帰れなくなった。感覚の発見とは、ものと言葉とが厳密な対応しているということだろうか。あるいはフランス語とはそういう言語なのだろうか。このへんがフランス語を解しない自分にとっては永遠の謎なのである。

 言葉が単純に名辞として ”もの” に付け加えられる、というような容易なものでないことぐらい私にも想像できる。”もの” の発見が、近現代の、例えばフッサール等によって明らかにされた 近代主義的な物質概念とは違うものらしいのだ。周知のように近代的な二元論的世界観によって物質と精神とは分かたれると説明されるのだが、”もの” の発見の衝撃とはそのようなものではなかったのかもしれない、よりよく考えてみなければならない。”もの” と感覚との誕生は、発生論的には同時であった。

 感覚とものの同時発見による熟成の過程が有名な ”経験” を導く。そうして森が何度も語っているように、経験の中で人間は定義される。人間から出発してはいけないのである。森はこの半ば文明論的な書の中で書いている、日欧の比較から生み出される東西の比較論に浅薄さに言及しながら、日本人から出発してはならない、最後に日本人にならなければならない、と。彼はそのようにしてパリに死んだのである。

 本書 ”遥かなノートルダム” が明らかにしていることは二つある。一つは、人間は経験によって定義されること、それが出発点であり、経験を経由しない言説や思想は無意味だと云うことである。経験によって定義されるとは、かけがえなのない個人として自分自身の自己定立に到達することを意味する。これを定義と云う。この中で人は初めて孤独さと云うものを理解する。孤独さとともに、社会とは、国家とは、世界とは何であるかを理解する。ものごとを最終判断をする場合の自己決定権が自分にあることを理解する。そこから責任と連帯が生まれる。

 二つ目は、世界の欧化に伴う世界史的な状況の中で、日本のような欧米以外の国々に於ける特殊な問題だけでなく、ヨーロッパに於いても ”経験” の危機が生まれてくると云う指摘である。
 ヨーロッパの近代とは、経験の思想に加えて、数式化による機能合理性と効率化が社会の表層のみではなく、精神世界や人間の内面的な世界までも律する一元化社会であったらしいという認識である。このことだけなら晩年のフッサールなどが主題的に取り上げたことが知られている。問題なのは ”経験” の思想の風化と後退がヨーロッパのみではなく、世界同時性として進行し、経験の思想喪失が一方では世界や政治への無関心として現象し、他方では個人の内面性の空無化として現れる、と云う指摘である。本文を写してみよう。

政治的関心と、個人の内面的反省と思索と云う―― 

”人間の二つの在り方が、あたかも変数と函数との相関関係のように、両者ともに減退していく”(本文)

 遥かなノートルダムが何の象徴であったかは明らかであろう。
 時代に抗して抗いながら、屹立として首を差し向けた、孤立無援の、そしてパリに聳える孤高の双頭のカテドラルに似ていたのである。

 ”遥かなノートルダム” の魅力は、単に森有正の思想を語っただけの書ではない。ゴシックやロマネスクと云った建築巡礼は言うに及ばず、ルネサンス以降の絵画を、実物として現地の経験として見ながら感じた、あふれるような情感と旅の伝道書としても読むことが出来る。また、オルガニストとしての経歴は繊細にして雄渾な響き合う音の音響空間の臨場性を伝えている。