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森有正の ”経験” 、自由、平等、そして神と個人について アリアドネ・アーカイブス

森有正の ”経験” 、自由、平等、そして神と個人について
2012-02-02 19:19:03
テーマ:文学と思想

 森有正と云う固有な概念「経験」とは何であるのかを理解するのは難しい、と云うことを先回書いた。森と私の間を隔てるのは海外の滞在経験であり、森が習得した現地での本物の言語の構造であり、パリと云う町に何十年も済むことで得られた、美術館巡りなどでは得られない総体性としての西欧の文化経験である。到底、森の思想的深みとは立ち打ち出来ないなと観念しつつ、今回は、森有正の言語ではなく、私の言語を使って「経験」と云う概念に不可能かもしれないアプローチを試みてみようと思う。 

 森有正が「経験」と云う言葉で何を意味したか、それを読みとるのは、なかなかに難しい、ということを書いた。彼はあるところで、「経験」と「体験」の違いを説明しているが、私の場合消去法的に、「体験」ではないものを彼は「経験」と彼は言っているらしい、と云う以上のことを理解するのは困難である。この場合の「体験」とは人間の習得技術や発達過程における、こつ、のようなもの、最近流行りの表現をすれば、「顕在知」に対する「暗黙知」のようなもの、あるいはその両者として考えられる。すなわち森の言う「経験」とは、顕在知や暗黙知を超えたもの、あるいはそれとは全然違うもの、より正確に云えば、顕在知や暗黙知と云う認知の全領域を生みだす基になる基層的な人間経験、と言い換えても良い。これを「実存」と言い換えても良い。

 完全ではないかもしれないが、彼の云う「経験」とは何であるかを理解するために、補助線として「自由」と「平等」とは何か、と云うことで考えてみよう。

 西洋で理解されている「平等」とは、森の要約によれば。第一に神の前の平等である。第二に、そこから「自由」とは、個人の自由としてしか定義できないと云う。(森有正によれば)私とあなたの関係を基本とする伝統的な日本の社会では、ヨーロッパ的な意味での「個人」の概念は成立せず、したがって「自由」や「平等」の概念も存在しないと云うことになる。「神」の存在を「自由」の拘束態としてしか発想しえない大部分の日本人からすれば、「神」と「個人」と云う概念が双方向の相互規定性を持つと云うのが何とももどかしいほど不思議に感じられるのである。

 そうして、この双方向の相互規定性である「神」と「個人」、それを繋ぐものとしての「自由」と「平等」の概念を生みだす基になるものこそ、「経験」と云う概念なのである。したがって、森有正における「経験」とは何であるかを理解する一つの方法としては、かれら西洋人が「神」と云うことで何を考えていたのかと云う問いと通底していることが解る。つまり、彼ら西洋人が「神」ということで何を考えていたかを解ってあげないと、本当の意味での対話もまた対峙も成り立たないと思うのである。

 森有正は、単に西洋に東洋を対置すればよしとするような思想家ではなかった。巷に散見する東西比較論が大嫌いなのである。西洋文明と対峙することに於いても、彼らの武器や技術を習得し、彼らのルールで一度闘ってみることなしには、本当の意味で東西の対決はない、と考えていた。逆の言い方をすれば、西洋と対峙することにおいて、カメレオンのように都合が悪くなると日本的精神主義者に変貌する退路を自ら断っていた、とも云える。知識人としての矜持において。