アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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長谷川宏『同時代人サルトル』を読む――企投性と被投性をめぐって アリアドネ・アーカイブスより

長谷川宏『同時代人サルトル』を読む――企投性と被投性をめぐって
2013-04-16 17:00:37
テーマ:文学と思想

 

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・ ”サルトル、とつぶやくと、いまでもちょっぴり胸が熱くなる”と著者の長谷川宏は書きだしている。この書物の特色は、サルトルを語りながら同時にわたしたちの戦後と呼ばれた時代が長谷川たちを含む、固有のある幅と奥行きを持った世代にとっての意味を語った点である。戦後と云う、とりわけ最初の十年間が意味する、未完成で未決定の、永遠の待機状態にある時代体験としてのモラトリアムな性格が、特に我が国に於いては、あらゆる価値崩壊の後に生じた思想的真空地帯のなかに生きる青年たちに、あるいは青年たちを超えてその若さ、瑞々しさが、サルトルの実存思想と響き合うと云う、本国でも見られないような稀有な現象を生み出していたことが、この書を読むとよくわかるのである。

 この点は1940年生まれの長谷川においても、1948年生まれのわたしにおいても、8年と云う年齢の隔たりにもかかわらず変わらない。わたしの場合は長谷川におけるほどの熱狂を生みはしなかったが、彼の気持ちは分かるのである。あるいは彼の気持ちが分かる最後の世代と云うことになろうか。
 そう言う訳で、わたしにはこの書を、サルトルの懇切丁寧な読書案内でもある本書を批評したり、論評したりする気持にはならないのである。そうでしたね、そうだったんですね、とまずは云ってみたいのである。両者の学問や読解力の力量の差を考慮しないでも自ずと越し方の経歴と履歴の差がそう言わしめるのである。

 しかし、こうした読者としてのわたしの側に生じた素直さが、逆にわたしと長谷川とのあいだの微妙な違いにもなるのであった。違いと云っても人間二人いれば違いがると云う程度の意味である、違いと云っても、向こうは生涯を、アカデミズムと決然と決別し、市井の塾講師としてく苦難のなかを生き抜きながら、哲学徒たることの志を終生忘れることなく高く掲げて生きた名著『ヘーゲルの歴史意識』の著者なのである。どだいエンジニアくずれのいちディレッタントとは比較の天秤に載せる方がおかしい、それはそうなのだが、それはそうであるがゆえに、また長谷川宏とは違う観点からサルトルとその時代を語ることは、長谷川の「同時代人サルトル」の趣旨を大きく逸脱するものではないだろうと確信する。

 一つはサルトルの来日を語る場面である。これが長谷川の目には、サルトルの問題意識が当時の日本における知識人たちの思潮と噛み合わないぎこちなさに映じた。長谷川も書いているように、この頃のサルトルは世界のあちこちで退潮と孤立分散を余儀なくされつつあった知識人と呼ばれた人たちへの激励がメッセージとして含まれ、またある程度の纏まりあるものを業績として成し得たものとしては、旗手として態度を鮮明にしなければならないと云う矜持があった。しかしそんなサルトルの使命観が、当時の日本の知識人たちの水準とは若干かけ離れたものだった、と長谷川は言うのである。
 つまりこう云うことである。欧州に於いては知識人とは支配階級からの階級離脱者であるのに対して(例えばツルゲーネフは貴族だったと云う意味で)、江戸年間を通じて貴族階級が実質的な政治に関わらず、もっぱら宮中儀礼にのみ関わって来たこの国に於いては真の意味での貴族階級やブルジョワ階級と云うものは形成されず、明治維新の諸混乱期を通じて、とりわけ農地解放後の戦後に於いては階級間移動は比較的容易で、自らの階級的出自をサルトルのように倫理的に原罪視して考える必要はなかった、と云うのである。

 確かに長谷川の指摘はその通りだとしても、その歯切れの良さが気になるのであった。それは60年代後期の学生の反乱の時期を語る場面にも同様に感じるのである。この時代に於いて知識人と呼ばれた種族の何が変わったのか。大学の自治であるとか学問の普遍性が、産学共同路線や応用理学と云う名の元に、実務的な学問が主流になり、普遍学問を掲げるサルトル流の試行錯誤型は時代遅れになった、と云うのである。これもその通りなのだが、あまりにも公明正大で屈託がなさすぎるのである。(屈託があればアカデミスムの外で半世紀以上も塾講師として生計を立てながら初志を貫徹すると云う生き方は不可能であったとも云える、信念とはそうしたものだろう。)逆に言えば、今日に於いてもなお、サルトルへの讃嘆をかくも素直に肯える長谷川の言説が羨ましくも妬ましくも感じられるのである。

 生前のサルトルについては、彼が生きている間はわたしは終始反発をしていた。特に彼の主体性論がいただけなかった。”自由”を前提しての”投企”(企投性)と云う行為、――自由とはサルトルの場合無と同義語であったが――しかしその自由とは、言葉が生まれる以前からより外的なものによって規定されているのではないのか。むしろハイデガーの”被投性”の方こそわたしたちの実存をよく説明し得る言葉ではないのか。
 わたしがいけないのはこれを語るにハイデガーの言語ではなくスターリニズムの言語で語った点である。わたしはクレムリンの御用学者、スターリニズムの男妾と揶揄されたゲオルグルカーチの方が優れていると思っていた。実際に長谷川の本書を読んでみるとわたしの知らなかった『弁証法的理性批判』の時代のサルトルスターリニズムに接近し、接近すると云うよりか一体化しており、意外とサルトル的論理はスターリニズムと近かったことが分かるのである。問題はサルトルの論理とスターリニズムが通訳可能であると云う点にこそあったと云うべきだろう。要するにスターリニズムの亡霊を根絶やしには出来なかったと云うことなのである。わたしの反発も実際にはそう云うところにあったのかもしれない。

 長谷川の人間的な素直さとわたしの屈折と云うことに論点を戻せば、それは『嘔吐』の読み方にも現れている。長谷川は『嘔吐』は失敗作だったと云う。その理由は通常ロマンとは主人公や彼を取り巻く登場人物が様々な諸経験、人物や事件との出会いを通じて成熟し、人間としての完成を意味しないまでも社会的関係性としては人間のドラマとして熟成し登場人物たちに豊かな膨らみを与えるものだが、この小説の主人公のロカンタンは、そうした機会をことごとく切り捨て、世俗から超越することを持って由とする、最後は裸形の自分自身だけになると云う孤独のマニフェスト宣言、寒々とした小説であると云う。長谷川はバルザック以来のロマンに対してこれを、反ロマンと、限りなく自らも価値も他者との関係性も失っていくと云う意味で小説の反対概念であると云うのである、先例としてはリルケの『マルテの手記』があるけれども。
 これも19世紀の小説を渉猟しつつ読み解いている学究・長谷川の云うことだから多分そうなのだと思う。しかし主人公のロカンタンは長谷川の云う通りだとしても、副主人公たち、独学者やアニーなどの魅力的な造形性については何事かを語っているのだろうか。主人公ロカンタンとサルトルの見通しの貧相さと反比例するかのようにこの作品のなかでは肉づけと厚みとを備えている人間造形に対して語らないと云うことがあってよいのだろうか。
 ついでに云えば長谷川はあくまで主人公ロカンタンの観点を尊重し、それを基準に小説を読んでいるような気がする。これは初期の文学愛好者の読み方である。作者や主人公の云ういことをそのまま信じるかどうかは長谷川が素直な性格であるかどうかとは関係ないだろう。ロカンタンはサルトルではないし、『嘔吐』はサルトルの言動を離れてある、限界も含めて。そのように読んだならばまた違ったふうに読めるに違いない。それは文学解釈の問題を超えて、問題作『嘔吐』の読み方を通じて、実は長谷川のその時代との関わり方をも規定しているものなのである。

 まあ大袈裟に屈折とか時代との関わり方のスペクトルの違いなどと云ってみたところでわたしたちの間に大きな違いはないのであった。率直に生きなかったのはわたしの方である。罪はわが前に咎は明らかにわたしの側にある。素直であるのかそうでないのかはもちろん生得の性格にもよろうし経歴にもよるだろう、1940年と48年の8年間の年代の違いもあろうし、それ以上に両者のあきらかな教養や見識の差と云うのも大とするだろう。しかし贔屓の引きだおしと言われるかもしれないが、少なくとも60年代の思想的混乱はもはや戦後世代の若さ、と云うものでひとくくりに出来ないことも明らかだった。つまりサルトルを回顧的に語ることでは尽くせないほどの豊饒と思想的な成熟を遂げていたのである、あの60年代は!