アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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上山春平 『日本の思想――土着と欧化の系譜』 アリアドネ・アーカイブスより

上山春平 『日本の思想――土着と欧化の系譜』
2012-04-21 18:37:11
テーマ:文学と思想

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・ 表題は必ずしも内容を代表しえていない。また、同名の書物として丸山真男の『日本の思想』を持つが、ある意味では密接な関係のある、この書で検討に付されるのは、以下のとおりである。中江兆民、狩野亮吉、西田幾多郎今西錦司志賀直哉小林秀雄三木清中井正一野呂栄太郎丸山真男吉本隆明、の諸氏である。しかしこの論集で中心的に論じられるのは西田幾多郎であり、それも一個の思想家に対する興味と云うよりも、混迷を深めつつある21世紀の状況の中で、西田が提起した東洋的なものの考え方の中に、人類史的な展望を託している点である。すなわち――

「西田博士の思想には東アジアの仏教圏に生い育った大乗仏教の底を貫流している生命への深い洞察が受けつがれているように思われる。そうした観点が、西ヨーロッパの近代社会で育ってきた科学的な思考法を否定するのではなく、それに欠けた面をどのように補うことができるのかということを見きわめることは、私たちに残された思想上の大きな課題ではないかと思う」

 上山のこの論文集は1959年から1978年にかけて書かれたものだが、その頃は高度成長期の前期もしくは予行演習的な時期に当たり、西洋的な価値観も環境問題もエネルギー問題も今日ほど未来に禍根を残す問題を孕むものであるとは想像もされもしなかった、知らざることが幸せであった時代でもあった。かかる知性と文化の幼年期、政治的思考の牧歌時代でもあったことを考えたとき、この書を一読して得られる上山の先見性には驚かざるをえない。

 まず西田幾多郎である。戦時中の言動から軍部への協力が取りざたされた京都学派の総帥に対して、その幼年期よりの伝記的出来事を紹介する中で、意外にも西田が自由民権運動にシンパシーを感じる雰囲気の中で育ったことを明らかにしている。黎明期の明治期学制の変遷の中で、――北陸の専門学校が第四高等学校として変化する中で、西田が意図的に退学を選択し、それが正規のエリートコースを断念せざるをえないものであったことを上山は重視する。この苦節の時期に『善の研究』は書かれる訳であるが、観念論と政治的保守主義に転向した後も、その外見にもかかわらず西田の自由主義的な思考は、地下底流となってあの悪名高い戦時中の軍部との交渉の中にも、文化的抵抗――真正の学問ならば抵抗の契機を生まざるを得ないと云う意味で生かされていたことを、上山は特筆している。本人の恣意的な政治的姿勢や価値観によってではなく、学問自体が持つ自体的な力によって政治的抵抗へと流されて行かざるを得ないところに西田の、例えば戦前と云う時代性に於いて西田以上に影響力を保ちえていたかの小林秀雄亀井勝一郎、あるいは西田と並び処せられた京都学派のもう一人の総帥、田辺元とも違った点ではないかと思えるのだ。この点は学問的な本筋からは一見どうでもいいことのように思えるかもしれないが、学問の本質に係る問題なのである。西田が今日に於いてもなお読まれ、且つ若い世代の読者を日々獲得しつつある現状があり、古びることのないアクチュアルな現代思想としての印象を与えるのに対して、田辺や亀井は影が薄い、断定的な事は言えないけれども、今後の予想としては小林秀雄志賀直哉などは、そのそのかっての名声にも係らずピークを過ぎた作家であるという印象は否めない、断定的な事を云うためにはもう少し研究した結果でなければ云えないことだが、余計なことと思いつつもここに書いておく。なぜこんなことを書くかと言えば、西田や京都学派と言われる彼の弟子たちの言動を知るにつけて、戦前の日本人に対する尊敬の気持ちが静かな波紋のように波立つことを感じたからである。もっと果敢に政治的状況に係った抵抗者は幾人もいたに違いない。戸坂潤などは例外であるにしても、中途半端だと云われる西田や和辻の軌跡の方に偽らざる敬愛と畏敬の念を感じるのは、思えば不思議な心のありようである。

 かかる日本の代表的思想家である西田幾多郎の中に脈々と流れつづけた自由主義的なものの考え方の源流を求めて、上山は論文の巻頭を中江兆民より始めている。兆民の自由主義近代主義と異なるのは、彼自身が儒学と仏教の薫陶の中に生を受け終生それを守り続けたことにあると上山は云う。しばしばこれが明治の黎明期における近代主義者の限界とも取られることが多いのだが、むしろ西田やその他の日本型の思想家に共通する儒教や仏教的な背景は、必ずしも弱点なのだろうか、というのがこの書を通じて上山が主張する一貫した考え方である。
 上山のこの書は、一般的に知名度が高いとは云えない、狩野亨吉や中井正一の紹介を惜しまなかった点であろう。狩野は思想家としての業績を、少なくとも書物の形では残さなかったが、安藤昌益などの近代の先駆者の発見に業績があった人物であると云う。狩野の謎めいた軌跡は、明治期の学制の変化の時期に突如としてアカデミズムを去って市井の鑑定家として終始した埋もれた生き方にある、と云う。明治人としての一徹さを感じるとともに、もし書物の形で残されていたならばと、惜しまれてならない、上山の書物からはそのように伝わってくる。
 中井の書物は毛沢東のある意味で『実践論』に比肩するものであると云う。企画提案から批判と検証に至る、概念の形成と実践により真理の客観的な深化の過程である。この書はまた、社会思想と論理思想の関係を追求した論理思想史として前例のないものであると云う。

 残りの、志賀直哉小林秀雄三木清野呂栄太郎丸山真男吉本隆明今西錦司につては十分に今までも論議されたおなじみの名前が連なっている。吉本隆明については、この60年代の段階では後年の体系的な著作がいまだ姿を見せていない時期であり、ここでは近代主義者の丸山に対して土着の思想が論じられているにすぎない。今西については、戦後における西田哲学を継承するものとしての大きな可能性を示唆している。もっとも今西は生物学者なのだが。