アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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西田哲学と60年代全共闘運動、その青春の論理(再録) アリアドネ・アーカイブスより

 
――”西田哲学を言語論的な立場から問う」
のなかから、(付録)の部分の再録です。
戦前・戦中・戦後を通して、何ゆえに
西田幾多郎の哲学が若者に受け入れられたか、
その一端に、思い当たったような気がしました。
 
 
(付録・1)西田哲学と60年代全共闘運動の青春の哲学
 
 同様に、68年の全共闘運動は、とりわけ東大闘争は、――誰も言わないことだが、西田哲学の名に於いて闘われた形跡がある。”自己否定”や”東大解体”などは如何にも西田哲学風である。自己否定とは、西田の絶対矛盾的自己同一に似ている。東大解体は、帝国主義的知的枠組みの解体として、主客未分化の超越論的”純粋経験”や”場の論理”が持つ破壊力を彷彿とさせる。三派全学連風の”一点突破”は、行為的直観の憂国的心情に似ていると思うが、如何? 
 六十年代の世界を席巻した全共闘運動は、――闘った各位たちの意識無意識に関わらず――ある意味で西田の言語音痴の伝統を引き摺って闘わざるを得なかったのである――逆に”言語音痴”にこそ思想が歴史的地平に対して持つラディカルさの秘密もあるのだが。そこからは”直接経験”ならぬ”直接行動”の世界が、つまりインナーゲバルトと粛清の、血なまぐさくも不吉で不気味な政治主義的地平が、蒼ざめた戦後史の横顔をほのかに覗かせている。
 尊敬し敬愛する西田幾多郎さん、何もかも責任を押し付けてすみません。 
 
(付記・2)
  西田哲学は、一度目は戦争と帝国主義と闘って敗れ、二度目は戦後社会と平和の理念と闘って敗れた、つまり奇妙な言い方だが、戦争と平和と云う相異なった二つの相手と闘って敗れ去った、不思議な総力戦の哲学である。