アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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井上靖と西田哲学 アリアドネ・アーカイブスより

井上靖と西田哲学
2012-05-28 11:40:17
テーマ:文学と思想

・ 井上靖の自伝小説ものを一応読了して感じたのは、西田哲学との関係であった。両者の関係についていままで言及されたことはあるのだろうか。

 自伝的小説『夏草冬涛』の中で、中学卒業後伊豆への故郷帰りの一齣として、元小学校の校長をしていた伯父の家を訪ねる場面がある。洪作は受験に失敗しており目標の定め得ない春を迎えたのだが、その報告も兼ねてご無沙汰していた故郷を訪れたわけである。生前一度も笑った事のないと評される伯父の家を、「敷居の高い」家にその伯父を訪ねるのだが、そこで漏らすともなく述懐する言葉が、洪作は医者に向いていないかも知れないなと云う伯父の言葉なのである。井上家は代々医者の家であり、医者になることは先験的事項とされていたのであったのかも知れず、彼自身が医者になることについての心理的な逡巡を書いていないだけに、実は書かれざる事の内にこそ一番心理的に障害となっていたものがあったかもしれない、そのことを、凡そ人間の人情と機知に疎い厳格一方の元校長が笑もせずにふと漏らす、と云う構図である。その後伯父が言う言葉がまた実に卓越している。 人生いろいろあるけれども、人生など一瞬にして終わってしまうものだ、と云うのである。餞の辞としては当時の井上少年に最も必要な助言ではなかったろうか。
 延び縮する時間性、生涯の紆余曲折に満ちた起承転結を瞬間のうちに閉じ込めて観ずる、この姿勢が、例えば有名な西田幾多郎の最終講義の乾坤一擲とも云えるあの一節に似ていないだろうか。

 西田は言う。――自分の前半生は黒板に向かう生徒であった。後半は黒板を背にして教師であった、と。つまり黒板に向かい黒板を背にして一回転する、その一回転が人生だったと云うのである。
 永遠を、瞬間に凝固して観する、これが禅でなくて何だろうか。

 さて、井上が禅について多くを語ったとは思えない。僅かに比類なきスポーツ小説とも読める自伝的小説『北の海』の中に、一人道場に座す柔道少年の姿を描いた印象深い場面がある。人間的所作の真剣さが覗き見た少年たちの浮ついた心を一蹴する場面である。井上少年が、文学的世界と出会う前に柔道と云う形でスポーツ――私はこの表現を好まないのだが、身体的所作あるいは身体性言語、とでも云うべきものと出会ったことの意義はとても大きいと思うのである。
 私は、井上靖における禅的なものの起源は、京大哲学科時代を別とすれば、金沢時代の柔道経験にあったのだと思う。禅的な潔さは『姥捨』から晩年の『幼き日のこと』や『わが母の記』にも共通するものである。私が何時も思い出すのは、月下の闇に白く滲んだ下田街道への道、の風景なのであるが、この道は『しろばんば』の洪作少年がしろばんばを追った幼き頃の道でもあるとともに、生易しい抒情を退ける井上家一族の地方旧家の血、それは姨捨の荒野にひとり生きる母の決意のごときものにも木霊している。そして、こうした精神的風土の中に於いてみるとき、お蔵のお祖母さんの抒情だけが際立って異質なように見えるのである。伊豆に生きたこと、それを後年井上が繰り返し良かったのだと述懐し思うのだとすれば、井上文学に二通りの詩情と云うものを与えた、あるいはそれ以前に井上に二様の人生を与えた、と云う意味に於いてであると私は理解する。

 井上と西田幾多郎との共通点は、北国であり金沢の第四高等学校であり、京都大学である。大学では美学を専攻し西田の弟子から指導を受けた事は知られている。和辻哲郎九鬼周造を待つまでもなく、哲学と美学の関係は、井上の記者時代の美術担当として、『漆胡樽』や『敦煌』などの歴史物で素養の一端は示されている。そして、既に誰かが言っている事かも知れないが、初期の自伝的名作『しろばんば』が、西田の云う純粋経験、――主客未然の先‐言語的経験に於いて描いたものであることは既に指摘して置いた。井上は純粋経験をふまえることで、過去と云うものを直感とも認識とも反省とも如何なる認知の様式とも異なった、生まれたままの感性の瑞々しさの只中に於いて表現し、子供はこのようにものを考え観じていたのかという、失われた時間を再現させて見せたのである。伝記や自伝的な文学的な形式では決して見ることの出来ない、井上靖の詩と真実を描き得たのである。

 禅と云い、西田哲学における純粋経験と云い、戦前の京都大学につ集う哲学的雰囲気が井上文学に与えた影響についてはもっと言及されてもいいような気がする。確かに、西田幾多郎は戦後のかなり長い時期に於いて戦犯的な扱いを受けており、彼との関係を云々することは名誉ではなかった時代がありはしたのだが。