イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』――カソリックとはなにか アリアドネ・アーカイブスより
イーヴリン・ウォー『回想のブライズヘッド』――カソリックとはなにか
2019-02-18 23:54:48
テーマ:文学と思想
(右)二十六歳のイーヴリン・ウォー (ヘンリー・ラム画)
(左)イギリスの田園風景に溶け込むカントリーハウス、ブライズヘッド邸のモデルと想定されるワデスドン・マナー
いまのところ、ネットでは一番良さそうなので、下記のものを紹介しておきますね。
ロマンティック・コメディーとして読まれているようです。コメディー?最後は神の予感に目覚めるのですから、語の定義に於いてはコメディー(喜劇)と云う理解の仕方も可能です。ダンテの『神曲』がヨーロッパではコメディーと理解されているような意味で!
http://britannia.xii.jp/cinema/title/brideshead.html
このノスタルジックで頽廃的で時代錯誤のイギリス現代小説は、荒れ地を流れる霧のような得体の知れない解り難さと、舞台設定としては一転して詰将棋にもにた論理性と硝子のような透明な明晰さがあって、日本人にははなはだ論じにくい題材と云えます。
分かり易い方から書いておきます。
舞台は、1920年代のオックスフォード、ここで語り手チャールズ・ライダーはセバスチャンと云う優雅で魅力的な貴族の子弟と出会う。彼は、第一次大戦後の急速に変化し勃興する時代の趨勢と旧体制の退勢のなかで、まるで白亜紀の恐竜の最後の生き残りのように、旧体制を象徴するカソリック的秩序と酒浸りの日々のなかに、まるで19世紀のランボーかジッドの主人公たちのように、未開の地アフリカの片隅で身を持ち崩し滅んでいく。語り手チャールズは、最初からこの青年の倒錯的な雰囲気に魅かれて、他方では健全な中産階級的生活感ゆえに彼を建前上は救おうとするのだが、語り手自身のなかに元来現代社会に対する嫌悪と軽蔑が隠されているのであるから、結果的には親友と一族の滅びを是認し傍観するほかはないのである。むしろ無意識のうちに幇助して責められることにもなるのである。この点については、貴族の次男セバスチャンだけでなく、長男である無趣味無感覚の人、俗物ブライズヘッド伯爵を除いて、一族全体が滅びの淵に徐々に身を沈めて行く。また、語り手自身も、潜在意識としては、現代社会に適応しない、誇り高き一族の滅びの形を、耽美的な色彩で仕上げることができれば本望だと本当は思っているのである。それゆえ語り手の職業がラファエル前派風の画家とされていることは決して偶然ではない。
セバスチャンとは、語の踏襲された伝統的な意味として、殉教者の意味が最初にあり、彼は伝説通りに弓矢に刺し貫かれて死ぬよりほかにはないのである。生ける人間としてのセバスチャンと云う青年の個的実存を、心理的に理解することは不可能で、彼は現代社会のなかで取り残され滅びて行く貴族社会の象徴であるとともに、歴史にライフサイクル論を適応すれば、滅びいくものとしての「青春」の、無垢さ、純粋さ、移ろいの、そして死の、没落の全き象徴なのである。単に語の意味に於いて「象徴」なのであるから、彼の被虐性や自己処罰性の、人生に対する耐性を欠いた根源的受動性の理由を尋ねても無駄なのである。わが国の三島由紀夫の場合がそうであったように。イーヴリン・ウォーは時代に掉さして「象徴」と云う言葉のなかに、歴史的過程としては19世紀貴族社会の没落を、ライフサイクル論としては永遠の課題としての「青春」が持つ「当為」の意味を重ねて語ることに意義を見出しているのである。小野寺健の1970年代講談社版の邦訳名が『青春のブライズヘッド』とと云う平凡な翻訳名を敢えて選び、往年の吉田健一訳の『ブライズヘッド ふたたび』を名訳として是認し賞賛し讃頌しながらも、他方『ブライズヘッド再訪』でもその他でも本作品の意を十分には尽くしえない、表しえない、としているのには、実は「青春」こそが本書のテーマであると感受していたことの理由による。(しかし2009年の岩波版に入れる時には、なぜか、岩波の権勢?を怖れてか『回想のブライズヘッド』と云う凡庸で無難な翻訳にしてしまった!)
青春とはと老年期と共にその過度性ゆえに死に対する親和性が高まる時期であるとも云う。青春の儚さや移ろいやすさや、刹那が死と類似の構造を持ち、容易に死へと移行しえるのは、青春の本質が非日常と云う点に軸足を掛けているからである。その意味で青春がその本質として持つ非日常は鋭く、人生と云う語感が持つに非常に鋭く対立する。セバスチャンによって象徴されるものは、かかる非日常のもつ儚さ、移ろいやすさ、死の親近性、無償なるものとしての純粋さ、そして究極に於いては自己処罰としての殉教性、と云うことになる。
また、セバスチャンには双子のように似た兄妹、ジューリアがいる。セバスチャンが物語前半を司る司祭的ヒーローだとすれば、ジューリアは後半の巫女的なヒロインである。セバスチャンとジューリアは性差は異なるが精神的には双子の関係にあり、兄の実在を裏返した関係にある。つまり板戸一枚を背中合わせに二人は一体なのである。語彙的な解釈を援用すれば、セバスチャンが「象徴」であるとすれば、彼女はアレゴリー(寓意)である。象徴とアレゴリーの違いは、セバスチャンの「象徴」が永遠なるものとしての「青春」の象徴として、時代を超えて普遍性を相似形に於いて保つのに対して、ジューリアの生の軌跡が描くアレゴリー「寓意」は不可解でミステリアスであり、普遍的な解を決して用意しえない。彼女の神への愛と自分の幸せを計りに賭けることはできないと云うカソリックが持つ論理と教理が持つ冷徹さは、一部の宗教的な感受性の持ち主には理解できても、時代を超えて普遍性を持つとは言い難い。同様に、作者イーヴリン・ウォーの人生後期を特色づけたカトリック入信と回心の動機にしても、アレゴリーであって象徴たりえない。
私が先にこの小説を評して硝子のように透明で分かり易いと云ったのは、テーマが「青春」であり、その象徴としてセバスチャンと云う貴族青年の造形があり、それが反転した因果としてジュリアと云う極めて魅力的な女性像を創造しえている、と云う意味なのであった。その他の人物たち、例えばブライヅヘッド家の長男にしても、あるいはジュリアと一度は結婚することになる政界商界の鵺的人物・レックス・モットラムにしても、はたまた語り手の美人の妻シーリアにしても、かかる明晰で透明な硝子の構図を分かり易くするための単なる類型に過ぎない。つまりこの小説は生き生きとした人物造形がなされているとは決していいがたく、「象徴」シンボル、「寓意」アレゴリー、が隠された意味での理念的主人公であり、それを「類型」や「抽象」概念が取り巻いている、という構図なのである。彼らの個々の生き方やドラマに何か深刻な意味があるかのように考えるのは、誤解なのである。
百八十度見方を転換して、例えば深層心理のものの考え方を援用して、この小説をカソリックに飼い殺しにされたもの達の物語である、と云う理解も可能であろう。篤信的カソリックの信者である母親は、無意識に子供たちを囲い込み呪縛するためにカソリックを利用したのかもしれない。なぜなら彼女は過去の履歴に於いて夫に別に愛人を造られ以降別居の状態にあり、名家としての自らの矜持と己が実存を保つためには子供たちを人質として味方にするほかはなかったのだから。ありそうなことである。――しかし、仮に真相はこうであったとしたところで、それがどうしたと云うのであろう。フロイド風の謎解きをしたところでそれが何になると云うのであろう。
私の考えでは、この小説で一番魅力的なのはかかるマーチメン侯爵夫人夫人なのである。彼女こそ、望まれ夫の改宗を前提として切望されてまで結婚した夫を自分の元に留めることができず、ついで世継ぎであるブライズヘッドヘッド家の嫡男である伯爵をどこの馬の骨とも思われかねない世俗の女に奪われ、次男セバスチャンには周知のように狂気と自滅の道を歩ませ、長女のジュリアにもまた語り手の言い分に寄れば、――そもそもその存在が人間とは言えず、人間の器官が部分的に発達したに過ぎないと酷評される政商レックス・モットラムとの婚約に対して、それを自分に対する無意識の復讐として譲歩しなければならなかったという意味で、一族の苦難を一身に浴びて死ななければならなかったのである。彼女こそ、性差は違え、最高の意味に於ける殉教者セバスチャンだったのである。
彼女を評して、語り手やセバスチャンらに代表される「青春」や無償さ、精神の純粋さとは対極にある人物として理解し評価する読み方があるが、とんでもない誤読であると云えよう。彼女が亡くなった後、長女のジューリアが語ったように、一族のものたちが寄って集って母親を死に追いやってしまったとと云う自責の念こそ、最終的にはジュ―リアをして、語り手と共に愛の生活を生きると云う人間としての幸せを断念させたものだったのである。
語り手はここ、ここに至って、ジューリアの何並みならぬ決意を見るに至って、人間の個人的な幸せなどよりも遥かに価値の高いものの存在を告知されて動揺する。それがカトリックの精神への回帰だと表てだっては書いてないのだが、イーヴリン・ウォーのその後の実人生論的生涯の軌跡は、雄弁にそれを語ることになる。一人の女性への愛ゆえに信仰に帰依する、アナクロにックだけれども気高い態度のひとつだとは言えると思う。
私が冒頭にこの小説には解り難い部分ある、と書いたのは、実はジューリア・マーチメンの回心のことだったのであった。彼女はカソリック的「回心」を通して、初めて血が通った人物として造形されている。マーチメン侯爵夫人の鉛の経帷子のような信仰心は子供たちを生き生きとした豊かな生の世界から残酷にも疎外し呪縛したが、ジュ―リアは一族の歴史的掉尾を弔う巫女として、その実存の影を、母の灰色の死の影に重ね引き請けることによって人間として立ち直ると云うことがあるいは可能だったのである。
語り手の不可知論者にはそれがまるで荘厳な奇跡のように見えた!
ジュ―リア・マーチメン。マーチメン侯爵夫人とともに実に魅力的な女性である。イギリスにしか生まれようがないと云う固有な意味に於いて!
カソリックについてはこちらの記事も参照ください。↓
「碑文谷と茗荷谷のサンタマリーア賛歌、――ある特別な一日」
https://blogs.yahoo.co.jp/takata_hiroshi_320/28878257.html
ついでに申せば、カソリックとは何か、と云うことを考える場合に、カソリックの神には固有な好みがあって、どういう人物を神は好まれるか、ということを考えて読むとこの小説の場合などはおもしろいですね。
小説のなかでウォーが描いているように、もしかしたら神はセバスチャンのような人間を愛しているのかも知れないと、仄めかしているのですね。決して、聖職者志望のブライズヘッド伯爵のような、感情を無くした機能としての人間ではない。況やレックス・モットラムやシーリアのような世俗的人間ではない。セバスチャンの場合は、「青春」そのものが基調のシンボルとしてあるように、無垢であると云うこと、罪を犯す以前の自然態に於いて生かされてあると云うこと、かつその世俗の垢に交わらず自然態としての聖性を守るために生きながらの死を選ぶことが、そのまま聖者に見られる殉死に近いこと、などが考えられます。
同様に、愚かであることも彼の特徴です。しかしながらカソリックの神は純粋無垢であること愚かであることと云うことのほかに、その対極にある罪深さ、と云うことも好まれるのです。マグダラのマリアの場合のように、あるいはジュ―リアや語り手のように。セバスチャンが聖者の表の表情とすればジュ―リアや語り手は、聖堂の裏側から回心への長い道のりを、迂回して辿ったものたちとも云いうことができるでしょう。これこそが聖書に云う”狭き門”の意味ではなかったか、と私は思うのです。
カソリックの神は神なのに、わが国の浄土真宗の仏さまと同様に、良い意味での依怙贔屓の感情が潜在してあるような気がするのです。弱者や一見無意味なものや些細なものへの思い遣り、反転して聖なるものを感受するものへの報酬なき無償の労り、ここにも特殊なものを通じての普遍、普遍としての宗教的感情、そう云うものを感じます。