アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラジアへの前哨 アリアドネ・アーカイブスより

デュラジアへの前哨
2012-12-16 12:42:50
テーマ:文学と思想

 


 ここにないのは『夏の世の十時半』、『ラホールの副領事』、そして映画『かくも長き不在』と『ヒロシマわが愛(二十四時間の情事』など、当時デュラスの映画は封切りで見れると同時に、同時「映画芸術」と云う雑誌があって、リアルタイムでシナリオも読むことが出来た。当時新宿にあったアートシアターと「映画芸術」、これが記憶の中でモノクロのセットに納まっている。「映画芸術」の装丁、そう言えばアートシアターの外観も白黒のモノトーンだったな、あの映画館で岡本喜八の『肉弾』、篠田正浩の『心中天の網島』、大島渚忍者武芸帳』をみ、トリュフォーの『柔らかい肌』、『突然炎のごとく』、ジャン・」リュック・ゴダールの『気違いピエロ』と『ベトナムを遠く離れて』、そしてフェリーニ『8・1/2』を見た。半世紀も前の昔の出来事である。

 『辻公園』と『モデラート・カンタービレ』のデュラスはその後、『ロル・V・シュタインの歓喜』と変化を遂げる。5月革命の前後には『ユダヤ人の家』なども、この作品は映画『かくも長き不在』の延長線上にある。ユダヤ的であるとは、デュラスの場合何を意味したか。歴史や時代の被拘束性をパッション受難と捉えて、インドシナのデュラジア的な旧約的な世界を、5月革命のパリの現実につなげること、これは従来「愛」の作家として読まれてきたデュラスの未解明部分、ひとつは「狂気」の問題、ふたつめには「政治」の問題への薄明かりの前哨へと道が開けてくる。

 「狂気」の問題は、『ロル・V]シュタインの歓喜』によって先鞭を付けられる。デュラスは『モデラート・・・』の成功が、恋愛物語として受けたられたことへの不満を隠さない。「ある恋愛ではなく、愛そのもの」であると云う。「恋愛」と「愛」の違いを日本語で云い分けても不毛だろう。「愛そのもの」ではなく「愛の形式」を描いた、と正確にはいうべきだろう。なぜなら『モデラート・・・』のテーマは「愛」と「剽窃」(形式)の物語なのであるから。愛と云うよりも、永遠の待機状態にある愛や観念と云うものが如何なる時の腐食作用を受けるかと云う物語であるのだから。
 『ロル・V・シュタインの歓喜』は、愛の至高性が眼の前を過ぎて逝った後に残された時間とは何であったのか、と云う物語である。至高の瞬間を求めてロルの執拗な追跡が始まる。この作品が難解であると言われるのは、この小説が通常ある恋愛もの、――愛と喪失の後遺症を描写する心理とは如何に異なっているかを説明するための、言い方は悪いがデュラス風プロバガンダ小説、つまり理論小説になっているからではないかと思う。

 政治もまた、アンヌ・デバレードの永遠の待機状態としての愛の真空、狂おしいほどの愛のテーマと同様の、彼岸性の問題を孕んでいた。
 また、旧約的な意味での彼岸とは、カンボジアの土地デュラジアでもあった。繰り返し高潮によって奪い去られる不毛の耕作地帯と云う、メコンの両岸に開ける水田地帯とはデュラス親子には見えない反面の風景、呑みこんでもそれを上回るほどの生の過剰が演じられる陰の子供たちの世界、夥しく堆積する死者たちの世界、記憶を失ったものたちの未明の世界でもあった。アンヌ・デバレードの後身である『愛』と『破壊しにと彼女は言う』には、赤ん坊の泣き声か幻聴のように聞こえる場面がある。 
 愛と政治の延長線上に、『愛人』と『北の愛人』の世界が立ち上がって来るのだろう。『ユダヤ人の家』の中で眠りつづけるダヴィッド、眠れる王ダヴィデ王は脱出することができるだろうか。デュラスによれば五月革命とは、「はるかにうまくいった失敗!」であったそうである。「五月は成功した事態だった」(デュラス)。ダヴィッドの脱出を助けるために「ユダヤ人」と呼ばれる男と、ダヴィッドの二人いる一方の妻サバナは死を共にするだろう。「どんなことがあろうと、今度はわたしユダヤ人たちと一緒に残るわ」(サバナ)。ダヴィッドのもう一人の妻ジャンヌは、「グランゴ」(グラムシフランコ?に似ている)と行動を共にすると云う。彼女は言う、――「わたしは、石女うまずめなの」(ジャンヌ)そして、最後の次の一句。
「彼は、シュタット(町)の夜明けのうち、人気のない途上にある女性と一緒にいるのであり、もう一度、生に出かけたのである」(p217)

 [途上にある女性」とは誰を指すのだろうか、美しい、デュラスらしい言葉である。愛することを知っている「ユダヤ人」とともに死することを選んだサバナと、時代の「悪」に染まり現世の汚辱の中で死ぬことをパッション受難として選んだジャンヌ・ダルク?のことを意味するのだろうか。二人の妻とは、愛を象徴するサバナと政治を象徴するジャンヌの、二人二様の受難と受苦との違いのことだろうか。
 こうしてデュラスは愛することを学び、汚辱の中に、引き延ばされた受難の時間の中に、生きることを選ぶ。
 『ユダヤ人』のもう一人の主人公アバンは、正典の記述者、伝道の記録者のように言葉なき啓示を脳裏に刻みつける、彼もまた「ユダヤ人」と呼ばれる。

 『愛人』と『北の愛人』の双書は、「愛」と「政治」と云う名の等しい「狂気」の世界が、何処に続いていたかと云う後日談である。
 ここではデュラジアの風景は、メコン川渡し船の、風になびく男もののハットと云う「永遠の風景」とともに現前し、デュラジアという「地獄」をショーロンと云う「天国」へと塗り替える。愛の営みは、すだれ一つを隔てた下町の雑踏の中で過ぎていく。あるいは愛の風景が露天市が、――喧しい露店の喧騒が「男」と過ごしたベッドの上を記憶の風のように過ぎていく。ここでは愛の営みが、その都度ごとに水甕の「洗礼」と言う、永遠の癒しの儀式によって純化し聖化される。デュラスの記憶による時の濾過は初めて「愛」を時間の彼方に生々しく追憶と云う時間形式で現前させる。プルーストにおける時の腐食作用は一瞬にして旧約的塩の柱(ソドムとゴモラ)の比喩のようにブルジョワ世界を崩落させたが、デュラスの場合は随分と回り道して、平凡な真実にようやく到達する。――愛する、生涯でただ一度しか正しい意味では用いられない言葉、それをデュラスは語の正確な意味に於いて用いる。

 しかし、ショーロンと云う名の聖域を贖うものは何か。お金、打算、死者の上に花咲く資本主義、整然とた並木と大通りを形成する居留地区と、青色のタイルを貼ったメコンに面する豪邸、そしてバスに鈴なりに乗ったインドシナの人たち。
 ――これら、人類の愚かさの見本の上に、まるで泥土の泥濘の上に咲いたかのような、ショーロンの紅蓮の花。幻想と小説と言う形式でしか到達できなかった、メコンの渡船場の風景、あの永遠が・・・・・。
 
 マルグリット・デュラスにとって、愛は初めて「永遠の待機状態」であることを止めたのである。『これでおしまい』(デュラスの遺作名)