アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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デュラスとプルーストの人物描写 様式と元型性 アリアドネ・アーカイブスより

デュラスとプルーストの人物描写 様式と元型性
2013-01-26 00:32:14
テーマ:文学と思想

・ プルーストがなにゆえにかスノビズムと云う現象に拘り続けた意味は単純ではない。世紀末から20世紀初頭の貴族社会とブルジョワ社会を皮肉に観察する特性としてスノビズムを選び出したのだろうか。実際には批判を受け皮肉られている対象よりもより露骨に語り手”私”の方がスノップであるようにも描かれている。スノビズムと云う人間様式の中に例え人間たちの人格的な酷薄さ、皮相さが現れていたにしても、それではスノビズム以外の場面でプルーストの登場人物たちはよりリアルに描かれえただろうか。スノビズムこそ人間に時間性と実存と云うものを与え、人を高貴にも皮相にも下劣にもする人間の行動様式なのである。様式化は類型化と似ているようで異なるものなのだが、逆にスノビズムに倫理的ないし道徳的な判断をの持ち込む者が共通に持つ価値観の偏り、一人の人間の中にあるとされる古風で啓蒙主義時代以降顕著になった等質な人格と云う概念や自立する人間像をプルーストが信じていなかった事だけは言っておかなければならないだろう。

 プルーストの小説は読み終ってみれば語り手を除くすべての登場人物がソドムとゴモラの住人であったと云う途方もない話なのであるが、唯一の例外が語り手の祖母と母親である。この二人は失われた時を求めての世界の中で”聖人”とも云うべき位置に居るのだが、彼女たちだけが聖人であったわけではなく、語り手の目から見たらそう見えた、と云うにすぎない、肉親ゆえにそう見えたと言うにすぎない。幼年期の毎夜の夢語りにジョルジュ・サンドのロマンティックな物語を語り聞かせると言う生活習慣が健全なものと云えるだろうか。またその反動として雨の降りだした中庭を傘もささずに歩いて見せる祖母の教育方針に対する確信の無さから人は何を読みとることができるだろうか。プルーストにおける語りが読者に固有の価値観を強制しないのは、古典的な意味での「作者」と云う高みからものを語るのではなく、人間が生きていく上で不可避に持つ偏りや偏見と云うものを通して、あるがままに見えるがままに語りを継続させると言う文体による。もちろん作者と読者の間には身分差があるけれども、それは古典的な意味での絶対的な格差ではなく、程度の差にすぎない。断言し確信を持って身分を保障する作者の特権性ではなく、偏見や贔屓の引き倒しのような歪みを持ち情感の厚みを持った文体、それが失われた時を求めての文体なのである。

 人間を様式に於いて描くとは、啓蒙主義的な時代の人格概念を破壊した。個人でありながら、個人であることを重ね合わせた時にj炙り出し絵のように見えて来るもの、それが様式であったが、様式を描くことに於いて、個人の恣意性は払拭され、個人を描くことが歴史を、そして社会を描くと言う特殊な使命をプルーストに与えることになる。

 様式とは、ここの標本を重ね合わせた時に見えて来る共通的な形式である。一方類型とは、評価する側の主観の側にだけ存在する観念の振幅を対象的世界に投影したものに他ならない。類型化とは、観念的、抽象的な評価であるにすぎない。一方様式化とは、主観の側ではなく、少なくとも対象的世界の側に成立する構造のようなものである。一人称の夢語りが、夢と現実を混淆させた不思議な朦朧態の文体が20世紀の鋭い現実感を併せ持つと言う不思議な奇跡の芸術的達成がここにはある。

 プルーストの人間観察、その人間観察に基づいた造形法が様式論であり、具体的にはスノビズムと云う実存の形式であることは言ったが、デュラスの場合は愛の殉教劇である。彼女の自作に対する批評、自己に関する言説を引用すれば「殉教と剽窃」と云うことになる。わたしは「剽窃」の意味合いを、単に二番煎じや偽物と云う意味あいの他に、形代(かたしろ)と憑依の関係であると考えている。

 殉教とは言うまでもなくキリストのおけるパッション=受難を意味する。受難とは端的に言えば惨劇であり理不尽な殺人劇である。殺人劇には単純に言えば殺される者と殺す側があり、この両者を見守る目撃者の三項関係から成り立っている。また目撃者の側も単なる利害関係のない立会人ではなく、密告者と共感者との二つに分かれる。つまり登場人物がせいぜい三人から四人いれば天地開闢以来の人間のドラマを描くことが出来ると云うフィクションの卓越を僭称することができる。ジョイスが『ユリシーズ』においてダブリン市民の一日のドラマの中に全人類史を凝縮できると言う啓示を得たのはこうした理由による。『ユリシーズ』の主要な登場人物は三人である。すなわち夫とその帰りを待つ妻とその息子の物語である(『オデュッセイア』)。殺された父親とその復讐を誓う息子と裏切った母親の物語である(『ハムレット』)。父親殺しと母と無意識の世界で交わるオイデップスをめぐる物語である。
 ここでは様式論よりも、それをより突き抜けた元型性の物語が卓越している。

 デュラスの持つ人間観、その元型性が現れたのが『モデラーカンタービレ』である。この作品が作家としての転機に立ったことは本人の証言にもあるが、結果的に自らの過酷な生涯の遍歴をキリスト教の濃厚な異端的雰囲気の中で描かれることになった。
 小説の劈頭で、愛するゆえに相手を殺さなければならない二人の殉教者たちが出て来る。そしてそれを傍目に見る、愛の殉教劇を目撃するアンヌ・デバレードとショーバンの二人がいる。ここでも簡素にして厳密に構造的なカルテットの関係は保たれている。四人の登場人物たちの心理を推測しても所詮は虚しく手掛かりが得られないのは、理解を拒絶するようなドラマの構造性による。デュラスの感性が持つ非情さは柔な情緒を受け付けないのだ。

 元型性と様式の関係はプラトンイデアと現象のような関係でもある。共通な諸現象から抽出された本質をイデア(元型)と考えることもできるし、イデアは現象(様式)の中に於いてしか本質ではあり得ないとアリストテレス的に主張する、双方の考え方が成立する。

 前者はデュラスやジョイスの方法であり、後者はプルーストの方法である。つまりスノビズムを越えたところに人間の本質はない。あるいは人間の個人差に根差す絶対的な格差、いわゆる個性などと云うものはないのであって、様式や元型性が示す厳密な構造を絶対的な枠組みとして運用する微妙な演出的な差異の中に、つまり震えるような躊躇いの中に儚い人間性が生息できる稀有の空間があるようなのだ、そんな人間観・世界観に第一次世界大戦以降のヨーロッパ人は晒されていたように思える。ついこの間たまたま読んだある日本の小説に作者が登場人物の一人を”この人は人間として信用できる”と読者に「保証」する場面があるが、こんな場面に遭遇するたびに文学と云う分野に限っても世界標準からづれてしまったこの国のお人好しさ加減にため息が出てしまう。国際的な局面で軽く見られてしまうのもゆえなしとしない。話が脱線してしまいそうなので、元に戻さなければならない。

 それでは自己とは何か?それはプルーストスノビズムの論理学に於いて描いたように、彼を取り囲む無意識の伝聞や他者たちの評価の世界から成り立っている。自己と社会的評価の世界の中には相互作用があって、無限とも云える日々のすり合わせ作用の中で”自己”は「確信」されて行くにすぎない。こうした、一見低俗とも云える相互作用、互換作用を超えた聖なる”人格”なるものはあり得ない。考えてみれば、そんなあり得ない人格や性格の等質性を前提にして成り立つのが近代の文学であったと云うのであるからプルーストジョイスの試みが如何に革命的なものであったかが解ろうと云うものである。
 
 同様のことを社会学的に言うならば、近代的な個性、個人主義の概念を大きく揺るがせたのが第一次大戦前後を境に成立した大衆社会の到来である。個人は伝統的な柵や社会的な属性から解放されるとともに、個人主義概念の母体となった共同性からも疎外されて単なるアトム化した原子化された単位、社会を構成する一要素に過ぎなくなる。そこでは個性よりも集団が示す不可視の構造、統計論が有意な社会が成立する。

 かかる社会の中で炙り出されて来るのが、先記の元型論である。様式論は時代や社会を代弁しえたが元型論の世界ではフランツ・カフカが描いたように、個人は匿名の由縁や背景を欠いた原子単位となる。原子たちはその世界の中で必死に物語を紡ごうとするのだが、それは「殉教と剽窃」の物語であったりハムレットの物語であったり対象に永遠に近づけない無窮の物語であったりする。
 元型性とはユングが考えたように永遠の人間の様式と考えることも出来るし、共同性が破壊された後のアトム化された極限的な状況とも解釈される。
 アトム化された個人はユング心理学ジョイスの小説のように平凡な日常に普遍の構造を炙り出すのも可能だし、単純明快な元型的世界の誕生を意味剥奪として、そこに人間であることの尊厳を賭けた最後のパルチザンの闘いを想定することも可能なのである。
 少なくともマルグリット・デュラスと云う作家が20世紀の後半期に於いて描いた闘いは、人間の尊厳を守るためのパルチザンの継承戦のひとつであったと云うことは言えるだろう。