アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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冬の日に読む・『夏の夜の10時半』 アリアドネ・アーカイブスより

冬の日に読む・『夏の夜の10時半』
2012-12-30 12:40:22
テーマ:文学と思想

・ この本を読みながら、『タルキニアの子馬』を思い出していた。我々日本人が理解が届かないのは、妻妾同居という形式が馴染みにくい点もあるのだろう。反面、それほど現在の日本が民主主義の国になってしまった、と云うことでもあるが、貴族階級の没落はヨーロッパの場合は、我々が抱く通念ほどには顕著ではなかったのかも知れず、有名なマリー・アントワネットの場合ですら妻妾同居と云うフランス文化の伝統?を受け入れなければならなかった。この作品が発表された頃、1960年頃は貴族やそれを真似たブルジョワ社会の形式が、今よりは残存していたと思われ、場所は異なるもののイタリア階級社会の現状等は須賀敦子のエッセーなどに寄って随分と意外で悠長な優雅な風習としても受け取られ、フランスではそこまでは行かないとしても、妻妾同居の伝統?は、プルーストの小説に表現が見られるように、フランスサロン社会の伝統も踏まえたブルジョワジーの名残りとして、粋として、知的エレガンスとして、それは戦後間もない1950年代にはなお存続していた筈であり、その名残を、何か当然のようなことのようにしてデュラスが語るという時代背景も、今日では見えにくくなっているのであるが、そういうこともあったに違いない。何がファーストレディーの諸国?なのであろうか。男女平等は日米欧共通に、経済的には下層性の中でしか実現されない。マルク主主義が言うように、如何なる愛も労働から切り離されたところではある種の傾向性、階層性を不可避的に帯びる。

 もちろん、妻妾同居をフランス社会の伝統やその名残としてだけで規定することで十分であるわけではない。マルグリット・デュラスにおける愛の特殊な形、それが後年「殉教」と云う形式をとるに従って、当事者同士の二項関係だけではなく、それを「目撃」するものとしての、殉教形式の踏襲、と云うか音楽で云う主題と変奏風の提示と再現、デュラス風フーガの技法、憑依と繰り返しの問題がある。

 たまたま市民社会の道徳観を逆なでするような、三角関係、妻妾同居の状況が偶然的に生じているわけではないのである。つまり愛の形式がデュラスの場合、「殉教」と云う形式をとる限りに於いて、「目撃者」(主婦)の前で夫と愛人はバルコニーで影絵劇を演じなければならなかったのである。つまり愛を交歓するもの同志と、それを「目撃」するものとしての存在は、殉教劇の十分条件とまでは言わないが、最低でも必要条件であったわけである。

 デュラスの文学に於いては、三角関係は心理的残滓のない三項関係として、当事者たちにDNAのように象嵌され埋め込まれた、構造化されたコードなのである。これをジュールズ・ダッシンの映画のように、よくある不倫の教訓劇のように描くことは見当外れなのである。
マルグリット・デュラスが、映画の改変された結末に天を仰いだのも当然だろう。

 この小説は、新聞の三面記事を思わせる舞台設定と云う意味では『モデラート・カンタービレ』を思わせる。違うのは、愛の殺人とは云うものの、ここには「殉教」の形式がない。むしろ「裏切り」の形式がある。殉教と裏切りは物事の両面だから似たようなものである、と云う粗っぽい議論もあるかもしれない。ともあれ、痴情沙汰の三面記事と云うことで云うならば、『ヴィオルヌの犯罪』にも似ている。実際にこの作品は、「犯罪」とそれへの加担を描いている。似たようなものであるのかもしれないが、殉教と裏切りの分岐点が何処にあるのか、それをデュラスの文学を通じて明らかにすること、それはきっと魅力的な話題だろう。

 この小説の特徴は、デュラスの固有の美学を語りながら、強いエンターテイメントを持っていることだろう。殺人犯が潜む複雑な屋根型のホテルやそれを取り囲むスペインの閉ざされた路地と街区、そして後半に出て来る狂気のようなゴッホの麦畑の強烈な色彩美だけではない。前作『モデラート・・・』がモノトーンのピアノソロのような作品であっただけに、対比が鮮やかである。それは表現上の問題だけに留まらない。夫の浮気と云った、誰でもが理解できる通像的な話題を、無表情に描き分けているのだ。
 この小説の特徴はデュラス独特の文体にあり、三人称の叙述と幻想が入り混じる、源氏物語を思わせる朦朧態にある。主人公の妻が紹介される冒頭のカフェの場面から、最後のマドリードの夜まで、彼女は杯をかざし王者のように延々と飲み続ける。だから、読者としては客観的な語りも、少し注意して読まなければならないな、と分かる仕組みである。

 ハイライトは、主人公がベランダ越しに、煙突の根元に蹲ったぼろ布のような殺人犯に気づく場面である。それがちょうど夏の夜の、10時半頃のことである。そして酩酊状態が抜けきらぬ幻想の眼で、殺人者と同時に睦みあう二人を重ねて幻視する。不倫を犯す夫と愛人の決定的な瞬間を蒸し暑い夏の夜のベランダを通して幻出させるとともに、殺人犯が愛ゆえに自分の妻と愛人を射殺したことを、読者は知っている。

 幻想が歪んで、主人公は現実の方へ彷徨い出る。それが殺人犯の密やかなる救出劇である。真夜中のドライブを装って殺人犯を車に匿い、国境近くの麦畑まで運ぶ。翌日、更に脱出劇を継続しようと、夫と娘、そして愛人を伴って現地を確認しに行くのだが、殺人犯は既に自分自身の生涯に幕を引いていた。

 あくがれ出でた願望とも云えるし、全ては幻想かもしれない。一行は最後のマドリードに到着する。部屋を「三つ」取って、夫婦、愛人は夫々別室である。この夜こそ、常日頃から主人公が予期していた夫と愛人の決定的な夜になるはずである。「彼ら」の「結婚式」なのである。同時に自分自身の「死の婚礼式」でもある。そんな二つの婚礼式を不吉に予感しながら、三人が三人三様でステージ上のジプシーの踊りを無感動に眺めるところでこの小説は終わっている。

 ロドリゴ・パエストラ、愛の殺人者。彼が前途を悲観して死んだとき、主人公の中でも何かが死ぬ。その愛の死をいとおしむかのように、主人公が死の儀式の香水を沁み込ませて自分の部屋に夫を迎える最後のマドリードの夜の場面は美しい。美しいと云うよりも、宗教性を感じさせるほど哀切である。一般に、デュラスほどいわゆる女らしさから遠い女性はいないと思っていただけに、意外であった。

 この後、『夏の夜の10時半』の書かれざる最終章を想像してみよう。
 マリアはどうなったのか。彼女は死出の旅を歩んで行くだろう。現実にどうなったか、ではなく、理念的には彼女は死んだ。彼女を待ち構えるのは、王女メディアの変貌である。もちろん、ギリシア悲劇のような血なまぐさいことは起きない。それは、ロドリゴ・パエストラによって既に代行された。あの事件により、「悲劇と殉教」の外殻だけが死に、魂だけが残った。マリアは魂を殺すだろう。映画『夏の夜の10時半』は、ギリシア人女優メリナ・メルクーリに奉げられたオマージュであろう。
 メルクーリとロミー・シュナイダーの起用は、時に原作を超えたものを付けくわえる。

 それにしても、最後の死の婚礼の儀式は美しい。
 彼女は生活不能者であり、社会的不適正者であり、主婦失格者でありおまけにアル中である。そして言い忘れたが、最後に無冠の女は愛の王者でもある。王者はギリシア神話の伝説上の英雄のように愛ゆえに死を選びとるであろう。唯一の気がかりの娘のことは、クレールが上手くやってくれるだろうと判断している。彼女は抱き合う前に、死の最後の儀式として、一歩後すざりして夫を見る。夫の全体が見えるように後すざりする。夫の全容を、全体を見直すとは、既に死者の領域に於いて死者の眼差しで見ているからにほかならない。魂は、既に壊れていた。

”「いつから?」
「たった今、そのことに気付いたばかりなの。ずっと前かもしれないわ」(河出版HCp197)