アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マルグリット・デュラスへの追憶 アリアドネ・アーカイブスより

マルグリット・デュラスへの追憶
2012-12-31 14:59:43
テーマ:文学と思想

 マルグリット・デュラスへの追憶! 
 
 マルグリット・デュラスの小説を通読して改めて感じたのは、彼女の虐げられたものへの絶対的とでも云える共感であった。単に、それは社会的弱者であるというだけでない、「社会的弱者」として歴然とした規定性を持ち社会の中に確固たる位置を占めた「弱者」は問うところではない。弱者ゆえに、社会的に不適格者であるがゆえに、名づけられようもなく狂気域に追い詰めらた、言葉なきものへの共感なのである。言葉なきものとは、例えば映画『禁じられた遊び』の少女のように、自らを不幸とは考えないものの謂いである。言葉が与えられた時、木霊のように言葉が甦ったとき、同時に喜怒哀楽の感情もよみがえり、友達を求めて泣き叫ぶ、そしてママン、とも。境界域とは、言うまでもなく正常と狂気、狂気と犯罪とに隣接する、社会の「外」の領域である。
 そこでは、言葉が力を失う。

 言論や表現の自由などの言説が声高に語られるけれども、知性や言語から隔てられた存在もある。彼らには公共性と云う意味での市民権はなく、境界に生きる彼らの生態をデュラスは並々ならぬ関心の元に『アウトサイド』などで「採取」した。昆虫採取と言うほどの感傷性をいささかも留めぬ無機性を秘めて彼女は記録した。その愛の境界域の極北にあるのが『ヴィオルヌの犯罪』であろう。

 こうした下積みの人たちに向ける共感を彼女は何処で学んだのだろうか。彼女が早くにヨーロッパを外側から眺める観点、『太平洋の防波堤』を既に書いていたことにもよろう。この系列の作品は、『タルキニアの子馬』、『木立の中の日々』、『辻公園』、『モデラート・カンタービレ』、『セーヌ・エ・オワーズの陸橋』と続き、そして『ユダヤ人の家』へと続く。

 こうした文学も、デュラス風の美学と云う事だけで読んではいけないのだろう。デュラスの文学には「殉教と剽窃」があり、この均衡が崩れた時「狂気と犯罪」がある。
 狂気の物語――『タルキニアの子馬』、『木立の中の日々』、『モデラート・カンタービレ』、『ヒロシマモナムール』、『かくも長き不在』、『アンデスマ氏の午後』、『ロル・V・シュタインの歓喜』、『インディアソング』、『愛』、『破壊しに、と彼女は言う』、『女の館』、『アガタ』、『エミリー・L』
 犯罪の系譜――『静かな生活』、『夏の夜の10時半』、『ラホールの副領事』、『セーヌ・エ・オアーズの陸橋』とその小説化『ヴィオルヌの犯罪』そして『ユダヤ人の家』と『アウトサイド』
 人間以下の愛、最低の愛、爬虫類の愛、インドシナの愛、ショーロンの淫売、助平娘の物語――『愛人』、『北の愛人』、そして『太平洋の防波堤』

 デュラスの、言葉なきものとしての手法が、一方ではヌーヴォーロマン如きの前衛芸術へと、他方ではアナーキーで犯罪の領域と隣接する社会主義的な文芸として両立しているところがとても興味深い。言語を奪われたものとしてのインドシナの体験は、言語を超えた美学へと超出する。
 こうして、社会的弱者、浮浪者、犯罪者、アル中、意志薄弱者、生活不適合者へと繋がる共感が、生涯の最後の奇跡のように、メコンを渉る潮風と艀と魚の死臭漂うデルタ地帯の懐かしい風景が、擦り切れた安ものの衣装と靴と男もののハットを被った、『愛人』と『北の愛人』のふくよかな潮風になびく愛の成就が、デュラジアの記憶と追憶の世界を生むのだろうか。

 かくも長き言語の不在、不在の文学は癒されたか。