アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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”ブルームの日”の思い出 アリアドネ・アーカイブスより

”ブルームの日”の思い出
2013-06-05 20:37:56
テーマ:文学と思想

・ ある年代に決定的な影響を与えると云う読書と云う体験がある。1904年の6月16日のいわゆる”ブルームの日”の一日の、朝から晩までを描いたこの本の紹介は不要だろう。芸術はそれ自体で固有な価値を持つ、あるいは現実とは異なった秘密の世界秩序を持つと云う考えこそ、この書が今日に至るまでもわたしの文学経験に影響を与え続けてきたものだが、当時は、文学的経験といえども世界内存在、世界内実存、読者が現に生きてある世界内的環境条件に於いて生かされてあるものであるとするならば、個的な経験としては年代を超えて同一の意味するものでありながら、凡そ意味されるものとしては正反対とでも云えるほど異なっているのである。

 当時、時代を席巻していた思想とは、マルクス主義であり、サルトル実存主義などだった。世界で7億の民が飢えるとき、文学に何の意味があるのかと問う問いの中に於いてこそ、『ユリシーズ』と云う本を読むことの意義があったのである。
 『ユリシーズ』はディアスポラ、離散した家族の物語である。同時に作家としての大志を描いたジョイスが家族を再建しようとヨーロッパ大陸を家族の理念を引きずって廻る挫折の物語である。それは再建される祖国の思いをつづった望郷の叙事詩である。それはゲルマン民族の大移動期と云う文明の崩壊とあらゆる価値の転倒の時代に、古代文化の残照を僅かにアイルランドの寺院が伝えたように、文献学的な方法を使って重たい現実に拮抗し得るいま一つの超越論的な現実に迫ろうとする絶望的な試みであった。
 言い換えれば、この書を読んだ60年代末期の読書経験は、文学に与えた意味内容とは余りにも異質な、当時の現実の倒立した、精密な自画像なのであった。

 わたしは現実から限りなく遠いところでブルームとスティーヴン・ディーダラスの意義について問うた。6月16日の最後の朝を第一挿話のバック・マリガンのように牛乳を飲むところから始めた。『魔の山』のハンス・カストロプのように自分とは関わりのない世界の彼方で響く雪崩の音を聞き留めていたのを憶えている。ファン・エイクフランドル派の絵画のように、正面に設けられた額縁のような窓辺を傍目にみてそしらぬ横顔をみせながら、何ものかの暗き不吉な像とチェス盤を隔てて対峙する、遠景は遥かに遠いけれども不自然なほどに視界は細密画的に鮮明なのであった。それは実存主義者たちが知らない越境してくる現実である。ベルイマンの『第七の封印』や『処女の泉』を新宿でみたのもこの頃である。残された一石が最後の一手であることを知っていたがハンスのようにその機会を利用するかどうかをわたしは知らなかった。
 
 その頃も時代の終わりころになると、芸術は現実とは異なった世界を築くべきだと云う考えは形を変え、メシア的な理想が、恩寵とは自分自身にとって最も大事なものをこそ来るべきもののために犠牲の羊として奉げられなければならないのではないのかと云う炎の共産主義サヴォナローラ風の薄気味悪い現実との対局がついそこまで迫っていた。