アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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伊藤勝彦 『最後のロマンティーク 三島由紀夫』 アリアドネ・アーカイブスより

伊藤勝彦 『最後のロマンティーク 三島由紀夫
2012-04-01 16:25:52
テーマ:文学と思想

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 三島由紀夫に関してはそう読んでいるわけではない。伊藤さんのこの本などを読むと『仮面の告白』を読んでいないと何も語れないような気がする。そのうち読んでみようと思うのだが、三島と云えば私の場合『英霊の声』であったから三島の読者としては傍流の方なのだろう。この本を一読して得た印象は、今もなお英霊が鎮む灰色の海原を自分自身が英霊の声となって、海上低く彷徨う、戦慄すべき姿であった。
 文学者としての三島がどの程度であったかは分からないけれども、人間としての三島はこの一作の数ページを読むだけで良く分かった。伊藤さんの本は様々な三島の伝記的事実を明らかにしているが、私の場合は言わずもがなと云う気がする。わざわざ検査に合格しないために平岡家の本籍がある加古川で徴兵検査を受け、偶然の機微と云うか運命の微笑みというべきか結果的に”不合格”になって、親子ともども有頂天になったとか、生前の三島が最も公開して欲しくなかった情報なども含まれているが、元々が本音と建前が見え見えの人だったのだから”新事実”の持つ契機力は失われている。彼ほど嘘が下手で演技力のない人間もいなかったと思うばかりである。むしろ照れたような三島の真剣な眼差しを思い出すと、嘘でしか語りえない真実と云うのがこの世にはあって、どうかその嘘を見破ってくれよ!あんたたちは文学を語るほどのものならば、この程度の嘘を見破る程度の感性は最低身に付けてくれよ、とばかり哀願する孤独な男の悲しげな眼差しが迫ってくるのである。

 加古川の出来事は、三島と加古川の出生兵士たちの生死を分かつ分岐点になったのだが、これを以後何十年もトラウマのように抱えてあの1970年の自決に至ると云うのが伊藤さんの美しき所説だが、多分そうだったのだろうと私も思う。”多分”と曖昧な言い方をするのは、多分そのように理解してほしいと生前の三島が願っていたものの一つの在りようだ、と云う程度の意味である。三島が人格として高潔であったことは認めるが、彼が仕組んだ様々な嘘、嘘と云うには余りに邪気のない子供らしい大嘘、の類に目くじらを立てることはないのだが、やはり乃木希典や『こころ』の先生ではないのである。加古川の事件が一本の導線として流れていたと云うのは認めるけれども、それらは原因の一つであり、また原因とは三島の場合それ自体が指し示すものであるとともに、かく世間の眼に見られて欲しいと云う表現者としてのフィクション、願いのの一つでもあった。何ゆえ其のフィクションと云うか嘘が彼の場合だけ許せるのか、それは見破られることを彼の方が望んでいたという類の大嘘、子供の邪気に他ならなかったからである。ともあれ、伊藤さんは大事なことをひとつ書き漏らしている。それはなるほど三島の大嘘をそのまま信じたとしても、自決がどうしてあの時期に起きたか、と云う点である。乃木希典や『こころ』の先生は、時代精神の終焉の時期としての明治天皇崩御に時期を合わせた。三島は1970年の何に合わせたのか。まさか万博に合わせたわけではあるまい。

 1960年代の後半は全国的に学園紛争が吹き荒れた時代であった。パリの五月革命を始めとする世界的規模の青年たちの反乱等の類似の事象はさておく。歴史証言者としての三島が見た現実は、平和の時代の中でおいてこそ流される夥しい若者たちの血であった。戦時に於いても平和な時代においてもそのことは変わらなかったのである。無垢の青年たちの血が無意味に流される、そのことに三島は不思議に感動した。それが、平和の只中に戦争そのものを幻視した三島の感受性の特性があった。多く人々は、平和な日本の彼方に”ベトナムを遠く離れて”戦争を見た。三島は平和な戦後の日本の現実の中に戦争を見た。これは当時の革新陣営や反戦活動家にはない感性。大多数の世人とは正反対の感受性であった、と云うことを特筆すべきであろう。

 三島が右翼にシンパシーを持っていたと云うのも、見破って欲しい嘘の一つである。彼は全国的に展開した学生反乱の無償性、純粋さの中に、戦時の集団的な無償性の時を隔てた木霊を感じた。勿論、何時の時代も果敢に行動する青年たちは入る。50年代の日本共産党を中心とする悲壮な分派闘争も、全国的な規模で国民を巻き込んだ60年の安保闘争の時代に於いても、何時の世も青年たちの無垢さ、無償なる行為と云うものはありえた。無償の青春、青年の無垢さに殉じると云うならばとくに1970年でなければならないと云う理由はなかった筈である。何ゆえ70年代のあの固有な時期だったのであろうか。あえて言えばこの時期とは、戦後の職業革命家を気取る革新官僚の予備軍たち、レーニン主義者の亜流たちが一時元気をなくし、影が薄くなっていた時期に該当する。戦後世代は自らの実存とはかかわりのない政治的理念を語ると云う世代とは異なった群像を生みだしつつあった。戦後世代の成熟は自らの実存を言語に於いて語ると云う、森有正の云う経験、現実性と自我を文化的言語によって繋ぐという感性を生みだしつつあった。三島自身は思想のために死んでみせると云う擬態をとったけれども、政治的課題を自らの言語によって語る戦後世代が初めて戦後の政治史に登場した瞬間を彼は初めて見た。常に時代をリードし、文化的、精神的には自分の方に正統性があり優位性があると信じていた三島にとって、これは由々しき事態だった。その思想を取っても行動をとっても初めて三島自身が凌駕されるという極めて異常でもあれば意外でもある事態が生じかけていたのである。三島のテーゼは歴史によって初めて乗り越えられつつあった。三島の偉大さは、青年たちの言葉にならぬ言語を感性をいち早く聞く感受性の卓越にあった。それゆえ彼は全共闘の青年たちに連帯を呼びかけたのである。

 70年安保に至る数週間の日々は梅雨の時期と重なり、まるで湿った線香のくすぶりのように重く澱んだ日々があった。劇的なことは何一つ起こらず、山手線は始発が軋みをあげて発車したし、タイムカードを押すサラリーマンの表情はホームドラマを見ているままであった。いや増しに感じるのは鉄壁の如く聳える日常があった。この鉄壁の前で戦後産声を挙げた初めて自分たちの言語を語った世代は玉砕し霧散した。こうして引潮の跡の空漠さが広がるように、またもや三島の前に戦後の現実と云う名の荒野が広がり始めていた。まるで戦中に感じたそのままの風景が再現していた。手がかりもつかめないほど強固な戦後の現実は、まるで滅んで行った青年たちと三島を嘲るかのようだった。もはや三島に戦後を二度と繰り返す必要はなかった。三島は戦後と云う時代に殉じたのである。つまりこの日この時を境に、三島は、あの乃木希典や『こころ』の先生のように、伝説の世界の存在と化したのである。

 この本は三島由紀夫を謳いながら伊藤さんの共通の先生でもある森有正についても多くのページを割いている。一見するとこの二人に共通点はあるようには見えないのだが、あるとすれば伊藤さんの云うように、幼児性、である。私などは、森有正の文体にどうしても馴染めなかったのだが、栃折久美子さんの勝れた回想録を読んで初めてその点を教えられた。私などは森を日本で死なせてあげたかったと思っているので、その死は三島より哀れに感じるほどである。

 最後に、最晩年の『豊饒の海』なのだが、密かに私淑している橋本哲二氏が好きだったので、舞台となった円照寺のだらだら坂を自らも辿り歩いたほどである。「春の雪」「奔馬」はなるほど傑作であるとしても、最後の「天人五衰」はいただけない、と云うか、意味不明である、と感じてきた。その理由が伊藤さんの本を読んで初めて分かった。つまり最初の構想にあった美青年と至高性の合体としての清顯的なものへの回帰は、つまり『豊饒の海』自身の最終章は三島その人によって演じられなければならなかったからである。それで五部作?の第四部{天人五衰」は偽物の出現と騙りを描き、そして源氏物語で云う「雲隠れ」の巻きのように、表題だけがあって中身が無い、つまり内容はあの日あの時のページェントを見てくれ、と云う訳である。
 こうして三島は自分自身の最後を、作品の中に組み込み、『豊饒の海』を自らの雲の墓標としたのだろうか!