アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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言語に於けるプラトニズムの経験 アリアドネ・アーカイブスより

言語に於けるプラトニズムの経験
2019-03-02 11:30:42
テーマ:文学と思想

 
 「書いた物語」と「書かれた物語」との矛盾、対立の問題を考えながら、他方において言語に於けるプラトニズムの経験、つまり可視的な事物や事象の世界を超えた実在を信じるか否か、と云うことについても考えたのでした。通常わが国では、こうしたものごとを考える領域は宗教であり神学であり、近代文学者としての条件を欠いたもと見なされざるをえません。

 しかし不可知のものを観るとは、幻想や空想、ファンタジーやミステリーに関する趣向と云うものとは若干違うのです。ましてや妄想や狂信と云う出来事とは無縁で、想像力と理性が均衡する、認識の透明さにかかわる、世界経験のことを言っているのです。
 不可視のものを観る言語観とはヨーロッパに固有のものであって、古くはヨハネ福音書の「はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」に淵源するものと考えられます。

 つまり言葉は人間存在よりも古い、と考えられる言語観です。
 通常の常識であれば、言語はコミュニュケーションの手段として人間の、人間による、人間のために編み出された手段、と云う風に考えられるのですが、主客転倒を是とする欧州文化圏の言語観が持つ異様さは、わたしたち日本人の眼から見ると際立つものがあります。

 しかしながらかかる異様な言語観の問題が、いま考えている「書いた物語」と「書かれた物語」の輻輳し対立する問題群と関わりがあるのです。

 「書いた物語」とは、作家のモノローグに繋がります。近代文学では、作家が他の者でなく彼であることの由縁、文学におけるアイデンティティの問題とも考えられます。
 「書かれた物語」は、人間の経験を超えた言語経験として、普遍言語の問題を予兆として暗示します。すなわち言語自身が己自身を語る、言語の自己開示です。優れた古典は何れもかかる側面を備えています。

 ところで日本人の特性を考える場合に、普遍言語の経験を著しく欠いている、と云う民族的、歴史的傾向を考えなければなりません。
 言葉が個々の人間的事象や経験から独立した自律性を持つと云う感性を欠いているから、弁論や弁明と云う事象が成立しませんでしたし、「言葉はうわべのもの」と云う言語観が庶民の感性の次元から上位に向かって階層的に、隈なく、遍在的に、条件づけられているのです。
 この国では弁論と空論の違いが曖昧ですし、弁明と弁解は同じことと理解されます。口では言葉やこころを大事にする、丁寧な説明などと云いながら、この国の階層的存在の日本人たちが言葉を蔑ろにする姿勢には、庶民から聖人君子に至るまで、貧乏人から総理大臣まで、身分差に関わりなく共通するものが感じられます。

 言葉の信義に賭ける、と云った赤穂浪士の気迫が欠けているのです。武装放棄を強いられた座敷牢の四十七人は言語によってこそ、武家諸法度法等の法体系と盤石ともみえる徳川幕藩体制の強者の論理とよく対峙することができたのです。

 普遍言語の経験の有無は、言語の公共性と云う概念とも縁薄きものとしました。公論と云う考え方が育たないのです。我欲剥き出しの私利私欲か、滅私奉公かの両極の間で揺れ続けるほかはないのです。利己主義と利他主義の間と言い換えても良いのですが、中間にある公共性に至る途中段階の諸言語の機能がなかなか定着しないのです、皆無とは言いませんが。

 個々の人間存在の在り方を考える場合に、私性と個性とがありますが、前者からは私利私欲の利己主義か滅私奉公の利他主義、しか帰結できません。利己主義であろうとなかろうと、利他主義であろうとなかろうと、個的存在がそれであるところのものである所以を固有なものとして考える個性と云う概念がなかなかに成立しないのです。

 個々の人間存在は、極限態としての個性に係わることにおいてしか、他者の立場に立ってものを考える、つまり公共性の輝きの元に、自分は他者であり他者は自分であると云う、輝かしき光明の、公明正大の世界に立つ、と云う普遍的な在り方としての公共性の立場は出てきはしないのです。

 徹底的に私利私欲に徹する利己主義かその反対物としての利他主義に立つ限り、公共性とは絵空事か、単なる学問上の抽象概念に見えてしまうのです。

 現代の政治世界を見ると、ちゃらんぽらんのトランポリズムや「小さな政府」の考え方は、デモクラシーにおける私利私欲主義の再評価、と云う側面があります。Mrトランプにしても小熊のぷうチニズムにしても、中華のシュー金ぺニズムにしてもその存在を支えているのは選挙民の舞台裏での無視しえぬ、灰色の政治的支持に立脚してあります。いっけん独裁者を演じているように見えて極めてある意味では民主主義的な手続きを――古典ギリシア時代であれば衆愚政治と入ったものを、踏襲している存在であると云うことに注意が必要です。つまり民主主義が齎した帰結としては彼らのが結果としては民主主義的でありすぎた方に問題であると考えられるのです。勿論この場合、民主主義の曲解された意味では、と云う限定項が注釈として必要ではありますが。
 これがアベノミクスとなると、トランポリズムの私利私欲主義の再評価に加えて、靖国の滅私奉公の利他主義が奇妙な形で接ぎ木される、サイボーグ性が話題となるところでしょう。

 これらの一連の世界政治の風景を通覧すると気が付くのは、世界をリードしているリーダーたらんとする人たちが何れも言語論的には普遍言語の感性を欠いている、と云いう点が注目に価します。普遍言語の感性!などと難しい表現をしていますが、単に低能などと表現すれば語弊を醸すからヘイトなどと云われないように、難しく難しく言っているにすぎないのです。

 六十億を超える人の命がこれらのものたち、愚鈍とも危険とも頭脳の程度がさほど高級とも思われない一介の輩の手中に人類の運命が握られていることを考えると、背筋がぞっとするほどの経験であることが分かります。

 再び、文学と言語経験の問題に話題を返せば、
 ⑴ 書いた物語
 ⑵ 書かれた物語
 の問題は、近代文学とは⑴が文学史的には卓越した、特殊な時代の文学理論であったことが分かります。二千数百年に及ぶ有史の文学史において、作品の背後に作者を想定し、作者の潜在的ポテンシャルの発言態として作品を評価する、作品と作者の関係を実像と鏡像の関係のように厳密に一対一のものとして考察する、厳密な作品理解と云うい手法は、近代と呼ばれたここ三百年間の時代に固有の鑑賞法であったわけですね。

 ちなみにかの小林秀雄の、文学とは自意識のことなり!、と云う明確で明晰判明な定義がかかる近代主義的鑑賞法、近代の論理的言説の象徴であったことが今なら「明晰判明に」分かろうと云うものです。

 現代文学とは、ジェイムズ・ジョイスヴァージニア・ウルフの文学に見られるように、作家を超えた言語自身の自己開示!と自己遍歴!と云う側面があります。具体的には文体の実験と云う形で、『ユリシーズ』や『フィネガンズウェイク』などでは作家がいない作品――言語自身が主人公となる作品――と云うものが究極においては目指されています。プルーストの『失われた時を求めて』などに於いては、人間存在の背後に控えてある味覚などの諸感覚を記述する普遍経験としての言語、と云う考え方があるようです。この場合も実在の語り手≒プルーストを超えた、語りの主体=言語、と云うものが背後に前提されています。
 近代文学のセオリーを持ってしては現代文学の、主要な作品の幾つかを読むことができません。

 とはいえ、現代社会とは、近代文学のセオリーとその反省態としての現代文学の水準の頽落態、としてもあります。
 話題を現代の日本の文学に限れば、なにゆえ私が村上春樹の文学に固有な抵抗の仕方を示しているかを必ずしも明らかにはしてきませんでした。
 村上春樹に代表される文学とは、かって現代文学の高みにあったはずのジョイスなどの「作者がいない文学」の頽落態、としてあるのです。つまり「作者がいない文学作品」が作家と作品の現象界を超えて言語自身による自己展開と云う超越論的な契機をまるで欠落させて、単に作品の背後にあるべき作家の固有性を欠いた、「お話」と云うレベルに終始しることをもって「文学である」と主張しているのです。

 村上春樹の文学を考える場合に何時も私が思うのは、その背景を欠いた、伝統と言語論的固有の経験を欠いた植民地文学性です。
 つまり、かって固有なかけがえのない実存的経験としてあった近代文学の固有性に対する無理解、ジョイスやウルフなどの現代文学の高みに対する本質を欠いた形ばかりの同調者の姿勢です(村上春樹の文学にフランツ・カフカとの共通性がどこにあるのですか?)。ジョイスやウルフなどにはあった言語の伝統や背景に対する無関心、その植民地性です。
 言語論的には、日本は植民地状態にある、これが私の現在の考え方です。

 現代の日本文学の世界で起きたことは政治の世界においても生じています。
 普遍言語の感性を欠いた安倍晋三氏と安倍明恵氏が日本国憲法を読むとき、それは意味のない、アカデミックな、抽象概念の羅列と同様のものとして二人の粗末な脳裏のスクリーンには映じるのです。つまり二千数百年の歴史と伝統を踏まえた言語と文化が、猫に小判、と云う簡略化された結論を導くことになるのです。

 日本国憲法の不幸は、それが日本人が最も苦手とする普遍言語によって書かれたことです。
 日本国民の幸せは、かかる不可視の言語で書かれた見えざる憲法の姿を、陛下が、自分は「日々『象徴』と云うことの意味について考える」と云う姿勢において、皇室の新しい伝統の在り方について、国事や公務等の諸行為の形を借りて、永遠に模索という行為を通してではあるが、それを継承し継続し続ける営為の最中におられる、と云う永久革命者にもにた久遠の共感的過程のなかにあります。


 私の立場は、文化立憲君主制と云うことになります。