アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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今日読む『武蔵野』の新しさについて アリアドネ・アーカイブスより

今日読む『武蔵野』の新しさについて
2014-03-29 10:00:32
テーマ:文学と思想




・ 武蔵野の俤は今わずかに入間郡に残れり、とは有名な『武蔵野』の書きだし部であるが、ほぼ半世紀も前、初めて東京に出て、同時高度成長下の日本で、武蔵野の俤を求めて多摩川べりや小田急線上の多摩川丘陵を下調べするでもなく、無目的で非効率的に歩いた日々を思い出す。普通、青春時代と云えば青雲の志に燃えるとまではいかないが、初めて見る東京の風景やオリンピックの余韻に若者らしい感激があってもよさそうなものであるのに、あの頃の私はひたすら滅びつつあるもの、失われるつあるものへの感慨に耽る傾向があったようだ。と云う事は、若い日頃ほど、『武蔵野』を懐古的感傷的に読んだと云う事だろうか。それに読みの正確さの意味でも、実際に『武蔵野』を一方的に多摩丘陵の雑木林に求むるなど勘違いを冒している。このたびほぼ半世紀ぶりに、大人の目で読んでみると国木田の言う武蔵野とは、渋谷の道玄坂にはじまり目黒、四谷、新宿、雑司が谷を含む、遠くは立川や川越に至る広範な領域、私鉄で言えば小田急ではなく、東急電鉄西武鉄道の沿線のエリアに該当する部分だったようである。もちろん、国木田が生きていた明治三十年代当時、東急も西武もありはしなかった。

 それからほぼ半世紀、今度は『武蔵野』を「自然」の発見の書として読んだ。武蔵野の美しさは、独歩が表面的に書いているような太平記以前の茫漠たる薄野と雑木林が織りなす王朝末期の美観ではない、その思い違いを正しく柳田国男が指摘したように、享保、元文以降の都市との地域経済間受容が齎した、人口の美に過ぎない、と云えばその通りだろう。しかし、この点を――独歩の地勢的思い違いを考慮に入れても『武蔵野』の新鮮さ、新しさ、知見の震えるような喜びが伝わってくるような感激は、少しも変わらないのである。

 むしろ、今日、賢しらに考えれば、独歩が伝統的な美学、花鳥風月的な観方に反して、ありふれたものに固有の美を見出すと云う在り方は、実は私たちのものの見方を無意識の根底で支えている文化的な枠組み、その枠組みが変化を遂げつつある現実との整合性を維持できなくなり、陳腐化を遂げる過程で、文化的枠組みを破壊して、現実そのままに観ると云う、当たり前と云えば当たり前なのだが、物事のザッハリッヒな観方を提案している、と云う事でもある。
 つまり、大げさな言い方をすれば『武蔵野』の登場は、文学史上の出来事を超えて日本文化史上の、日本人の国民感情の変化をとらえた巨視的な出来事の一つであった、と云う事である。鴎外漱石とやかましく言う人がいるけれども、それは文学研究や文明論上の言説としての次元であるのに対して、独歩によってもたらされた自然観の改変は、現実を、事実を、如何なる先入見や伝統的なものの見方や価値観からも離れて、ありのままに見ると云う姿勢において、近代日本人がどのようにして自然科学を、近代の技術を、より普遍的には西洋文明を受け入れて行ったかと云う軌跡を、明瞭に、明晰に描き得ている点で、これは特異な出来事と云わねばならないだろう。

 武蔵野の美しさは過渡期の美しさでもある。過去から現在へ、その束の間の移り行く時の変化をとらえて、そこに本来の美学を打ち立てた。物事を静態的、静観的にとらえ、そこからより精密な観察を可能とするのが近代科学の一手法であると思うのだが、現在時制の中に、過去と現在を含みうるものとして複合的な時制においてとらえた独歩の美学は、それ以降に展開されることになる陳腐化された近代主義的なものや科学主義的なものの見方を遥かに超える意味合いを持っていたともいえるのである。残念ながら近代主義の画一的、陳腐化されたものの見方からは、かかる独歩の独自な自然観や文明論は引き継がれると云う事はなかったようだが。

 つまり、結論的に言えばこういうことになる。
 一番目は『武蔵野』が切り開いた、自然観について。物事や現実を、過去の、陳腐化された花鳥風月的なものの見方から解放することで、初めて物事をザッハリッヒの観点から観察し、実証するものの見方が成立したこと。かかる観方の上に、明治期の日本人の上に近代科学技術が可能になった、ことである。
 二番目は、束の間のもの、移り行くものをとらえると云う複合時制的なものの見方が、静態的にものを観る観方であるとか、その結果から得られる精密化、精緻化と云う科学の方法を超えて、物事の見方を必ずしも可視的な領域に限らない、想像力や超越論的な領域の可能性を排除することなく確保し得ている点の、予言者性、詩人性がある。
 このような意味で、独歩は、自然概念の発見を通じて、近代日本における、最も明晰で明証的な近代の発見者であるとともに、近代を超える幻視者、予言者の一人なのである。