アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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独歩の『忘れえぬ人々』――忘れえぬ人々と忘れて叶うまじき人の間で アリアドネ・アーカイブスより

独歩の『忘れえぬ人々』――忘れえぬ人々と忘れて叶うまじき人の間で
2014-03-29 11:36:23
テーマ:文学と思想




 独歩の『忘れえぬ人々』は、一夜、東京から川崎経由で多摩川に沿って流れを遡り溝口――今日云う南武線武蔵溝ノ口に一夜の仮寝を求めた行きずりの二人の青年の話なのである。
 二人は、旅の行きずりから、雨の日の無聊を慰めるため、一室で語り合う。夜半も大きく過ぎてもう寝よう寝ようと云いながら、なお、語り尽くせぬ思いを抱きながら、何時しか、独歩を思わせる、志を得ない文学志望家の手書きの手稿、「忘れえぬ人々」に話題が及んで、夜の徒然にと相手が余りにも強く所望するので、それではと、読むのもなんだからと、その概要を三つほど語り聞かせると云うものである。

 一番目は、去る若い日に、郷里に帰る道すがら船旅で見た、寂しげなる小島の岸辺で侘しげに貝などを拾う 孤独なる漁民の残影である。何のゆかりもない人は、船が動くにつれて茫漠たる水平線の彼方に消えていく。
 二番目は、阿蘇登山から急ぐ下山途中に出会った馬追歌を歌う偉丈夫の姿である。
 三番目は、同じく船旅の途中で、四国のさる港の朝市らしい賑やかな風景と一人黙々と謡う琵琶法師の寂びた孤愁観が齎す対比と、対立を超えた音楽的調和である。

 なるほど、読み直してみると、独歩の言う「忘れえぬ人々」とは、孤独な孤愁ただよう漁夫であるとか、卓越した美声の持ち主である偉丈夫の馬子、朝市の雑踏の中を我が道を行くかの感がある琵琶法師にあるのではなく、彼らの孤愁に対比的に表れるところの、人懐かしい庶民の生き様に向けられた独歩の郷愁観であることが分かる。

 それで最初に挙げた「忘れえぬ人々」と「忘れて叶うまじき人」との違いなのであるが、この小説の結論は、この溝口の仮の宿りの中で一期一会のように出会った二人の青年の物語は、後に主人公の「忘れえぬ人々」の中には記載されることなく、忘れ去られた永遠に忘却されたと云う独歩独特の落ちにある。

 この二人の青年の出会いが、尋常半端でないことは独歩の書き方にも現れている。なぜなら、話の聴き手の相手方は、瞬時にして語り手の目が潤むような情熱を瞬時に理解するほどの感受性の持ち主として描かれているからである。

「と、秋山が大津の眼を見ると、大津の眼は少し涙にうるんで居て、異様な光を放って居た」(本文)

 語り手も相手方の画家である聴き手も、ともに当時のインテリ、あるいは志を得ないインテリの一人である。所詮インテリ同士の話などは、生活の実感に裏付けられた生活者の瞬時のプロフィールにすら及ばないと云う吉本風の語り口の事だろうか。事実、数年後に加筆された「忘れえぬ人々」に、当時を回想して拾い上げられたのは、聴き手の画家のことではなく、溝口の宿の主人の、おもねることを知らない、やや無愛想であるけれども実直で、存在感のある番台の一コマに過ぎなかったのである。
 あるいは、独歩にとって人生の真実とは、明瞭に言葉で指示されるものなどではなく、行きずりの何気なさ、瞬間の儚さにこそあったと云うべきなのであろうか。『武蔵野』を読んだものの目には、確かにそのように読める。

 しかし考えれば考えるほど『忘れえぬ人々』は不思議な小説である。分からない小説である。

 東京近郊の、うらぶれた仮寝の宿としか言えないような木賃宿でたまたまに二人の青年が出会う。その夜、夜を徹して大事なことが語られたはずであるのに、そのことは語れなくて、どうでもよいこと――としか私には思えない、行きずりの旅の点景がしか語られない、そのことが齎す寂寥にわたしたちは打ちのめされるのである。

 忘れえぬ人々と忘れて叶うまじき人、前者が何の縁故もない、利害関係のない人々であるとすれば、後者は明瞭な輪郭を持った利害関係と世間と云う社会関係の中にある具体性を帯びた他者である。しかも、その強力な縁故の由縁ゆえに「人々」ではなく「人」として単数としてしか語れない、尊厳に満たされた他者たちの世界である。

 しからば、溝口の仮寝の宿りで出会った二人の青年の一期一会ともいえる出会いと人間関係は、その何れに属すると云うのだろうか。忘れえぬ人々でなければ忘れて叶うまじき人でもない、具体性を欠いた存在、それでいて前者の様な、独歩が主として『武蔵野』の美学によって発見された詩情の人、稀有の人々でもない、その旅の仮寝の姿の絵の中の二人。

 結局、旅の途上の二人の青年が、傍目には知らず稀有の時間を過ごして、永遠に交際を絶ったのは、二人の間を流れた時間の尊厳ゆえにであった、と云う事は云えるだろう。この世を超えたもの、その痕跡は夜空を流れる流れ星のように一瞬、視覚の片隅をよぎり、再び、この世に持ち帰ることは所詮、願っても叶わないことなのである。

 これは表題が直接につたえる語感には誤りがあって「忘れえぬ人々」ではなく、出会いをこの世に持ち帰ることの叶わなかった二人の青年の物語なのである。また、孤愁漂う「忘れえぬ人々」のお話と云うよりは、それと対比されて語られるところの人情の懐かしさである。