アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

アリアドネ会修道院附属図書館・アネックス一号館 本館はこちら→ https://ameblo.jp/03200516-0813  検索はhttps://www.yahoo.co.jp/が良好です。

博物館にて 博物館にて アリアドネ・アーカイブスより

博物館にて
2014-07-26 13:23:27
テーマ:わたしの住んでいる町



先日ゲーテの『若きヴェルテルの悩み』を読んできがついたのは愛の崇高な物語であるよりは卑俗で手前がってな若者の物語であったということだった。得られた作品はゲーテが主観的に望んでいたような作品ではなく、愛の崇高性と云う啓蒙期の概念を脅迫症的に反復し誇示する準-狂人、あるいはその一歩手前の人間であった。若きヴェルテルが狂人ではなかったのは、自殺と云う手段で自らの病理的な傾向に終止符を打った点であろう。かれはその決断を他に代行者を見出せない固有の主体的な決断として成し得た、そこにヴェルテル問題の不易性がある。
 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテの偉大さは、それをよくある青春の感傷的な物語としても、あるいはまた突き放したイローニッシュな物語としても描かずに、大家として功成り名を遂げたにしても自分は常に若きヴェルテルの側にあると宣言した点にある。かれは七十歳を過ぎてもなお、愛を通じて自らがヴェルテルの如き滑稽な役割を演じることを拒みはしなかった。フォン・ゲーテとはそれ自身成長の物語であるけれども、同時に過去を見捨てることもしなかった。体面など最も彼の忌み嫌うものであった。それに反して彼が最も溺愛する小説の主人公は、体面ゆえに死ぬことを選んだのである。愚かな人生だったと云いうるだろうか。ゲーテには結果はどうであれ、人は努める限りにおいて不幸であると云う人生観がある。不幸であり不運であることは彼にとって資産の如きものなのである。

 体面、ゆるがせにできない出来事である。メイルに変わってLINEと云うコミュニケーションの手段があるが、これは二人以上の複数のグループを前提にした通信手段である。ここで問題なのは、その語られた内容ではなく、グループ形成が「閾」として持つ象徴的な意味、それがメンバーの実存を脅かすのである。グループ内でどのような位置を持つか、「閾」から食み出そうになるのかどうか、そうしたことが「人生いかに行くべきか?」と云う大問題より上位に来ることなのである。
 若きヴェルテルが直面した問題も、その人格の高潔さにもかかわらず例外ではなかった。
 人は皆と仲良く、協調的で前向きに生きなければならない。無論そうだろう。しかしこれを潜在的価値規範的命題とすることで、一人で過ごす孤独な時間に価値を見出さない、あるいは罪悪ずるような価値観が、戦後の今も継続されていると云うならば、この社会の方は健全なのだろうか。
 山田洋次に有名な寅さんシリーズがあるが、建前を去って本音に生きる庶民の生き方を肯定しているかに見える大衆娯楽映画の世界観にしても、明るく前向きに協調的に生きる世界が当然視される価値観であり、寅さんのような生き方は、御目こぼし的に許容される例外でしかないのである。

 先日、ある庭園の東屋で孤独な時間を過ごしていたらしい若い女性と遠慮がちな会釈を交わして通り過ぎたことを書いたが、こういう時、ややばつを悪く感じるのはお互いの意図が見え透いているからである。ここで挨拶を交わせば日常の枠組みに帰るが、通り過ぎれば一期一会となる。

 わたしはまた別の日に博物館の迷路のような広大な空間の中を移動していた。主要な動線からは少し入り組んだ古代の墳墓の玄室を再現したレプリカの前で静かな時を過ごしていたカップルを驚かせる結果になったが、青年の方は考古学の知識に詳しいらしくて、麦わら帽子を被ったワンピースの少女が如何にも感謝の気持ちを現して頷いているのが少し異様だった。
 麦わら帽子に、夏の日の木漏れ日、と云うと、なにやら堀辰夫の『風立ぬ』の世界であるが、こちらは疲れた両足を労わるために幾度か椅子に腰かけて目を瞑って時を過ごすうちに追い抜かれて、何度も前後して歩く結果になった。二人の、古典的なとも形容しうるほどの素朴さが印象的なのであった。二人の間には明らかな知的な上下関係があって、身体の特徴もそうであるならば、常に麦わら帽子を見上げるように傾げて相手の表情に対面すると云う姿勢が、何かこちら側の印象派風の既視観と交感するような感じであった。もちろん、博物館と云う膨大な過去の遺物に囲繞されてある事からくる老人の白日夢の類いであろうけれども。

 帰り道、西日を真横から浴びる交差点で信号街をしていたら、やはり二人組の元気な会話が聞こえてくる。大学がすぐ近くにある。なんでも青年が言うのには、就職先も決めたし全てが準備オッケーなのだが、単位が足らないので相談に行きたいと云うのである。青年は意気消沈するどころか素っ頓狂に過激である。昨今の様変わりした就活と社会環境を祝福したい。同時に青年たちの今後にも幸あれと!