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漱石『道草』と鷗外『渋江抽斎』と 江藤淳に逆らって ありあどねアリアドネ・アーカイブスより

漱石『道草』と鷗外『渋江抽斎』と 江藤淳に逆らって
2015-05-29 11:39:34
テーマ:文学と思想

 

 漱石と鷗外文学の比較、第一回目は初期の『三四郎』と(1908)『青年』(1910)、第二回目が中期の『こころ』(1914)と『興津弥五右衛門の遺書』(1912)、今回は後期の『道草』(1915)と『渋江抽斎』(1916)、と並べて気付くのは、極めて近接した時期に、両文豪が共通の歴史的・社会的関心を抱いていたらしいことである。第一の場合は意識的であり、第二の場合は潜在意識的であり、第三の場合は作家的資質や個性の問題を超えて未来の予見と云う領域に属する。
 第三の『道草』と『渋江抽斎』の比較が重いのは、見解の相違もあろうけれども、わたくしの見るところ両文豪がその作家的生涯に於いて到達した極点ともみなしうる作品であるからである。なにゆえ極点とみなしうるかと云えば、両作品が第二次大戦と日本近代化百年の崩壊に至る歴史のサイクルに対してある種の態度決定をしていると思われるからである。

 わたしたちは『こころ』から『道草』に至って、文体の変貌に驚く。語りのトーンの著しい変化に驚く。冒頭に書かれる「遠い所から帰って来た男」とは誰なのだろうか。伝記的記述を参照すれば漱石自身と云うことになる。イギリスでの留学を終えて帰国し、本郷に大学教師の職を得た漱石自身と云うことになる。
 漱石が本書で試みているのは、ロマネスクの放棄、つまり人生の諸断面を切り取って、それを作家自身の美意識なり観照的態度から「永遠の相の元」に構成すると云う、作為や意識性の放棄である。ここに淡々と記述される漱石帰国後の情況とは、その日暮らしに堪ええない庶民の悲惨な実相であり、群がりくる貧者の助けを求める声である。その声は、時に哀憐を超えて、脅しや恫喝といった半ば暴力的な体裁をとることすらある。作中、幾度か登場するかっての養父・島田のリアリティは群を抜いている。多分、漱石の実際の素材を利用しているためだろう。その迫力は、人物造形を描くに圧倒的である、と云ってよい。その不気味な描出力に於いて半端ではない。漱石は、帰国後の、洋行帰りの学者の周りに寄り集まるように、ゆすりたかりを陰に陽に繰り返す親類縁者の姿をまるでダンテの地獄篇のように、如何なる作家的主観や好悪的恣意を交えることなく記述しながら、小説としてのまとまりを意図的に放棄してみせ、この世に有ることでろくなことなどない、と云わんばかりに、このように傑作の末尾を書き納めている。――世の中に片付くものなんか殆どありゃしない。一遍起こった事は何時迄も続くのさ。」(『道草』102節)
 暗澹たる人生の認識であると云わなければならない。

 漱石の『道草』を読みながら感じるのは家族愛の中に最高にして最上の至高的価値を見出す価値観が、歴史的にみるとそれほど古いものではなく、昨今流行りの庶民的人情などと云うものも、後期資本主義の物象化の過程で退行的に生み出された補償作用の如きものであったかもしれない、と云うことである。ちょうど軍国主義化が退行的に天皇と彼に帰依する国民的規模の「赤心」を生み出したように。
 もっと短絡的な言い方をするならば、家族愛の中に至上のものを認める価値観は戦後のアメリカ文化を受容する過程でもたらされたものであるかもしれず、その背後には開拓者時代のバブテスト的な伝統が潜んでいることを、わたしたち日本人は知らないでいる。伝統と歴史的環境から切り離されたキリスト教移民が、厳しい環境の中で頼りにできるものと云えば、彼らの神概念と家族やぞれに準じる共同体であったことを思えば、その背景も無理なく理解できようと云うものである。

 わたしたちの戦後の文化は、主として映画や音楽を通して感化を受けた、アメリカナイズが極端に卓越化されたものとしてあったその文化は、目に見えない形で複雑に入り込んでいるキリスト教的なものの考え方を知らないで、その宗教的な背景を毫も忖度することなく、何か自分たちは新しいことを選択したかのように誤解して今日に至っている。
 新しいものと古いものの対立、かかる二元論は丸山眞男の政治論以来戦後人の思考の型式と云うものを形成し、わたしたちのものの考え方の中に深く浸透している西洋的なものの考え方、――端的に言えばキリスト教の精神の影響の度合いを過小評価し、丸山のように欧米と日本の精神的な断絶として論じられると云う伝統を未だに引き摺っているのである。
 こしたものの考え方と云うか二元論は、軽薄な欧米文化追従主義者にとっても、反対の東洋論的精神主義者や保守主義者にとっても甚だ居心地の良いものであることは思えば皮肉でもあれば不思議な現象である。
(この際ついでに言っておけば、日米なり日欧、いわゆる東西の文化的断絶を強調しておけば、強調の範囲で、いわゆる「知識人」の既得権益が確保されると云う意味でもはなはだ合理的な処世の方法だったのである。庶民の手には届かない文化――この場合は西欧の文化文明や科学技術など、を独占的に知識人と支配者側のヒエラルキーのために確保していることは――アカデミズムやジャーナリズムの形で確保しておくことは、体制の安寧的維持のためにも必要だったのである。)

 さて話を漱石に戻すと、彼の『道草』が新聞紙上に現れた時作風の変化にやや戸惑った、あるものは日本自然主義なり私小説的な伝統の上に、作家人生の紆余曲折の果てに文豪が合流し来ったものとして歓迎したと云う。しかし江藤淳などが明敏にも指摘したように、両者の間には作家の視点がまるで違っているのである。明治以降の欧州帰りの保守主義者の錯誤の数々を批判的に、対象化するように庶民の立場から描かれているからである。そこには洋行帰りの選良としての自負や矜持などは微塵もない。漱石が欧米で学んだ近代の幻想は吹き飛んでしまっていたのである。
(今日風に言えば、『道草』の健三とは、知が持つ特権性の批判である。知識や学問と云うものは何にを主張しても良いし何をしても良いのだが、それ自体では体制の補完機構であることに対して無自覚であってはならない。難しい言い方をすれば即自態としての知識は抑圧する側にあると云うことである。知による知の自己批判が社会的事件として現象するのは実に半世紀後の60年代問題に至ってからである)

 江藤淳はここから、芸術家としてではなく、「旺盛な生活人」としての漱石の偉大さを見ようとする。つまり偉大な作家としてではなく、文明批評家としての漱石に近代史上の価値を求めようとするのである。
 作家なり芸術家とは、一朝一夕に誕生するものではなく、文化や風土と云った「腐植土」の時間醸成における伝統の上に、つまり文化的「基礎」の上に「個性」として築かれるものである、と江藤は言う。ここでは最初から「文学」を問うことが可能であり、その「基礎」の妥当性を問うと云う事態は起こり得ない。
 しかし江藤によれば、近代日本文学が置かれた状況と云うものは、「文学」を問う以前に、その基礎を、つまり文学と非文学を問うと云うカントのプロレゴーメナにも似た基礎工事が必要とされる、と云うのである。その基礎工事の事を彼は、特に作家的営為と区別して「文明批評」的な行為である、と言っているのである。

 つまりここから言えることは、夏目漱石の偉大さとは一流の文学作品を書いたと云う意味ではなく、文化の土壌が皆無の「植民地的」風土の中にあって、文学と非文学の緊張のただなかにあって、その腑分けに腐心し、旺盛に生きた、あるいは生きざるを得なかった生活人としての漱石にある、と云うことになる。
 つまり、漱石は生活第一、芸術第二で生きた、と云うことである。大学教授出身の、教育者として大勢の弟子を従え、庶民の眼にも確かな生活者として是認されるような人間が、当時の代表的な新聞に書いた、日本近代文学史上の「文豪」の模範演技を見たと信じたのである。

 しかし没理想がそれほど価値のあるものであろうか。文学的な理念などは所詮、書生のたわごとの如きものであると達観する、江藤氏云うところの庶民の実感などと云うものが、彼の言うほど至高の事と云えるだろうか。
 
 あらゆる理想や先入見を排して、「ありのままに」人生を眺めたら、『道草』のように見えた、と云うのでは身もふたもない結論である、とわたしなどは思う。そこにありのままの庶民の実相が、掛け値なしの正価が値引きなしで、デパートのように展示された、とも思わない。
 江藤氏たちのものの考え方の底にあるのは、何か自然科学的な実質なり真実が超越論的にあって、それを妨げているのがわたしたちの先入見であったり、文士的なあるいは文学青年的なロマンティスムであるというような、あいも変わらないデカルト以来の二元論的ものの考え方であると思うが、人生を『道草』のようにみたら、『道草』に描かれた世界のように見えたと云うに過ぎないのではないのか。それを無前提に普遍化できると思うのは非科学的な思いこみに過ぎない。

 森鴎外描くところの『渋江抽斎』と彼を取り巻く世界は余程異なっている。渋江は幕末における比類ない考証家であり学者である。また彼の交流関係も彼の武士・儒者、医師としての生業、学問的な傾向や趣味によって限定される。これを庶民と呼ぶことは、あるいは抵抗があるかもしれない。しかしもともと庶民なる概念が、後期資本主義の物象化の過程で退行的かつ対抗的に生み出されてきた負の概念である可能性があることからも分かるように、江藤たちのようにこれをあらゆる批評の基軸として据えることには疑問がある。知識や趣味の多様に関わらず、階級性とは別に、庶民なり大衆と云うものはあったのである。
 ここに庶民とか大衆とか言っている意味は、ただ単に江藤や後の吉本隆明たちの言うように物質的に、物理的に利害的にこの世に一次元的に生存する「もの」としての人間の集団ではなくて、ある共通の理念を持って、その理念と生活態度が「既に」統一されてある生き方をしている大衆一般と云えば良いだろうか。渋江抽斎はかかる意味では「庶民」なのである。彼を取り巻く家族と親類縁故の人々の描いた生きる軌跡は、江戸後期に生きた「文人」と呼ばれた、庶民と大衆たちの物語なのである。

 わたしたちは、鷗外の『渋江抽斎』やその他の史伝を通して、かって日本流のそれなりの近代の可能性があり、民族的な滅亡にも匹敵するような一つの時代の画期と、そに生きた人々の記憶の死と滅亡を知るのである。鴎外の生涯の終わりにあって働いた強い動意とは、失われたこれらの人々の記憶は忘れ去られるべきであるか、という慨嘆、であった。しかし他方に於いて、周囲を見回せば明治から大正の世とは、まさに『道草』や『明暗』に描かれたような人々に満ち溢れた世界でもあった。漱石描くところの世界は恐るべきリアリティを持ち始めていた。
 鴎外は対象を過去に求めなければならなかった。

 ホモサピエンスは、言語と文化の中で人間となる。江藤や吉本隆明の言うように、生活の実感の中で人間になるのではない。彼らの眼に生活の実感と思われたものも所詮は、後期資本主義の幻想が生みだした潜在的な先験的価値観であるに過ぎない。夢の中では現実と非現実が区別できないように、実感信仰の中では現実と非現実、文学と非文学を区別する確実な論拠は与えられないのである。そこに彼らの限界があった。

 わたしは先に『渋江抽斎』を論じた時に、通常は史伝として分類される本書を近代文学として位置づけたのである。近代文学とは何か?それを定義するのに、通常はスタンダール以降のフランス近代文学を凡例にとって比較考証することが多い。つまり西欧的な規範的類型にいかに近づいたか、その形式上の多寡によって評価されるのである。
 わたしは『渋江抽斎』が近代小説でもありうる論拠として、鷗外の文学観――総体としての近代が輪郭として朧げに見えていたのではないのかと云うことを論拠として挙げていた。つまり西洋的なロマンとはセルバンティスからジェイン・オースティン以来、いま現有されている価値観が既に滅びつつある全体として見えてくると云う幻視作用としての批判作用にこそ求められていた。
 西洋的なロマンの王道とは、実にロマン主義の批判と云うことにあったのである。かくヨーロッパの伝統的かつ王道的な解釈を踏まえ、その延長線上に於いて、日本近代史上に生み出された『渋江抽斎』は、総体としての近代の批判と云う意味で、正しくロマンであると定義したのである。

 さてこの問題を、江藤淳は同一の問題意識に立って違った風に論を展開させた。彼の近代文学理解では、これでは日本近代文学に西洋と比較して評価に堪ええる作品が過小であるところから、苦肉の策として、文明批評家としての漱石であるとか、旺盛な生活者としての漱石などと云う非文学的な概念を特許のように「発明」したのである。
 このような見方では、鷗外の史伝はもちろん、谷崎の『細雪』、藤村の『夜明け前』、鏡花の『歌行燈』のような重要な諸作が抜け落ちてしまうのである。わたしは日本近代文学の卓越を哀惜するものとしてそのことを悲しむ。

 ここで結論めいたものを言えば、『道草』と『渋江抽斎』の比較論は、近代を論じ、近代文学の行く末を語るものとして意義深いと思うのである。『道草』と『渋江抽斎』とは近代文学が到達したひとつの極点として、その成果は資産として世界文学に誇ってよい事跡であると思う。