アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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安倍政治と衆愚制民主主義 アリアドネ・アーカイブスより

安倍政治と衆愚制民主主義
2019-04-06 12:38:54
テーマ:政治と経済


 安倍政治には二つの公然化されない矛盾、不吉な影がある。

 ひとつは、身の丈の政治と云うこと、綺麗な言い方をすれば!――この背景には、国民なり有権者なりの、自らに水準の近しい、等身大?の政治的リーダー像を求めているということがある。政治と家政の混同、公論といろばた会議の均質化現象、そして古典的な聖人君子や理想論は聞き飽きた、と云うことかも知れない。古典的概念に逆らうことが新奇性や流行現象に倣うことかも知れない。安倍政治がいまだフレッシュで、緒について間もないころ、”あべちゃん”などと、下卑て下品な表現が流布したことは記憶されているであろう。当時私はこの言葉に出会うと、背中が痒くなったものだった。

 ところが安倍政治にはもう一つの顔がある。
 それは国民が無知でばかなものであると云う前提で政治は進められるべきもの、という信念である。これは先々代の岸信介にも共通するものであって、――好意的に解釈すれば、国民は未だ問題を自分で解決する水準には至っていないので、少なくとも大衆よりは賢い自分――すなわち安倍晋三が、代わりに決めてあげる。つまり、彼が政治スローガンに掲げている「決める政治」「実行力」とは、正確にはこういうことなのである。
 国民は馬鹿にされているのだが、そこのところがいまいち伝わらないのが私としてはもどかしい!

 衆愚政治の特徴は、学問的な知や専門的な知識を忌避する平均的傾向である。メディアやアカデミズムに対する敵対や、焚書という類似性を帯びた象徴的行為とやがては異常な出来事と関係を持つようになるのは、こうしたこともひとつの理由による。

 衆愚政治の悪いところは、強力なリーダーシップと凡庸さと云う相矛盾する目標を掲げながら、想定される大衆の平均像とは、必ずしも大衆の平均値ではなく、平均値よりもかなり低いところに設定されている。それは特に、知的な物事や専門性に係わる領域において著しい。

 例えば、昨今の元号に関する大騒ぎがそうである。
 これは既に書いたので繰り返しは避けたいのだが、万葉風や国風の選び方などと言いながら、歴史の誤認に基づいている。大伴旅人、家持親子とは、開明的であった天智天武の皇親政治が終局を迎え、藤原氏一極一強体制に潮の流れが変わり始めた分岐点における、最後の抵抗勢力であった大伴氏――常に大君の伴としてある――のことであり、本来なら安倍政治にとって最も思い出したくない歴史的対象である筈であった。こうした歴史的経緯を知らずに、無邪気に万葉の時代などと云ってみせる、総理の無神経さは、この日この時のこの時代に等身大?に相応しいものだ、とは云えただろう、イロニーではなく。
 知られているように万葉集の掉尾は、因幡国府で詠まれた新しき歳の初雪を寿ぐ歌ですが、その何気ない形式性と、当時大伴氏が置かれていた状況の厳しさが、その落差が深く重く心に触れる句となっています(注)。この後家持は重たい雪降る東北の地に左遷され、その地で亡くなり、あろうことが彼の遺体は墓地から掘り起こされ衆目の元に見せ物、晒し物にされるのです。藤原氏一強の体制にとって如何に大伴一門が目障りであったかが分かります。その大伴家の当主の家持が編纂したと伝えられる万葉集が、口軽者たちにとって当たりの良いものであるはずがないではありませんか。しかも古代日本史の専門家であられる皇太子の前で厚顔無恥ぶりを披露する、という皮肉な具合になったわけです。
 元号選定に加わった誰もが万葉集を読んだこともなければ、旅人、家持が生きた歴史について知りもしなかったことが分かります。
(注) 「新しき 年の始めの 初春の 今日降る雪の いやしけ吉事」
  
 知識や民度が平均値以下である出来事の代表は、森友・加計学園をめぐる一連の騒動だろう。安倍晋三した直接関与したか、あるいは周囲が忖度したのかと云うことが問題ではなくて、一国の総理大臣たるものの政治的責任の範囲を、一個人の言った言わないのレベルで終始した、晋三氏の品位や品格にかかわる政治家像こそ問題であったはずである。政治家とは、自らが主観的に意図したことに対する結果責任だけでなく、自らの影響力の範囲で生じた出来事についても責任を負うものであるはずであるが、この人は都合が悪くなると「庶民の一人」に自らの責任を限定するらしいのである。「内閣総理大臣たる私」になったり庶民の一人になったりと、この人は忙しい!
 安倍晋三氏と森友学園の関係は、実像とカリカチュアの関係、――カリカチュアとは本物以上に本人の特性を誇張して演じる由縁が笑いを誘うのだが、籠池夫妻と昭恵夫人が演じた役割は本物以上に似すぎた過剰な演技が、一方では国民の資産や国庫の概念を忘却し、単なる恣意性の法則に基づいて利己的な世界を蕩尽する、と云う政治の私物化と云う政治背景に上書きされて演じらた茶番劇であった、と云えるだろう。
 時は良いことも悪いことも淘汰するが、手持ちの駒に余裕がある場合は持久戦に持ちこんで、これを利用すると常に上手くいく、というのが安倍晋三氏が半世紀に近い政治家としての経歴から学んだことである。誰にとってそれは上手くいくと云うのか?本当は、憲法改正や国粋的な考え方は信念に基づいたものではなかった。一日でも長く居心地の良い生活を維持したいと云う手段の自己目的化こそこの人の信念になったようだ。

 国民の知的水準の平均値以下の話題は、数年前の都知事の不祥事がらみの豊洲移転問題の際にも現れていた。
 汚染された軟弱地盤に設計された建物、選定の妥当性の他に、既になされていた完成後の構造物に対する、初歩的で、恣意的な解釈、――底板がなくて、細長比が大きくなった基礎柱の妥当性を含めた下部構造物全体の耐震検討の問題提起すらせず、耐圧版と捨てコンクリートとの違いすら知らない。業界では当たり前の知見がメディアや政治の場では活かされない、専門的知に対する無知!と見識の無さ!――それを当然のことのように自明視してなされる賛否両論の不毛なともいえる議論、加えてこれが大学教授や有知識経験者かと思えるほどの者たちの素人めいた知識の披露の数々!――いちいちは言いません!過去に書いたので。
 つまりここでも、国民の知的水準よりも低いレベルで議論が終始したことが分かる。

 2015年の安保関係諸法案をめぐる一連の騒動時では、首相自ら法解釈の第一人者を任じて発言した。何時から総理が法学界の権威になったのか知らないが、法律の専門家や有識者の知識は大学やセミナーでしか通用しない知識である、と云い放ったのである。
 しかし実際に「彼」の話を聴いてみると、それが昨今のことではなく、また一時の思い違いと云うのでもなく、民主主義や三権分立についての基礎的な知識がなく、その「彼」が立法と行政の違いを永い時間混同していて、無邪気にも立法府の長であるかのような発言を繰り返し、これには傍にいてたまりかねた友党の山口那津男氏にたしなめられる、という出来事も再三あった。安倍晋三の良いところは、頭脳の粗雑さに起因する自らの厚顔無恥ぶりを発揮しても少しも悪びれることがなく、自らの誤りは小さな過誤の如きもの、として素直に訂正する「朗らかさ」だろう。それは盟友麻生太郎にも共通していて、不祥事の連座を問われると、そうした些末は書生や秘書の領分だと言わんばかりに胸を反らして切り抜ける、大物じみた「あの」やり方である!
 胸を反らしすぎて転びなさんなよ!

 悪いばかりだけの男ではないが、歴史や伝統への畏敬と云いながら、歴史や伝統を知らず、戦争への禍根と哀悼と云いながら、死者への内面的理解に欠ける凡庸人、こうした男を一国一億総国民のリーダーに迎えて上手くいく?というところに、日本型政治の不思議さと云うものがある。