アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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政治家と政治屋、心情右翼とビジネス右翼 アリアドネ・アーカイブスより

政治家と政治屋、心情右翼とビジネス右翼
2018-04-29 09:39:00
テーマ:政治と経済


 まあ、こんなことを言えばリベラルや護憲派の方から反発をかうと思いますが、安倍政権の不思議な七転び八起きとも云える状態、偶然と海外情勢のデマゴギーに助けられている面もありますが、正当性なき打たれ強さは不可解だとされています。
 政界と安倍問題、考えてみると森友問題にしても加計事件にしても、遣っていることと結果の大きさの反響の、極端とも云える非対称関係が、意外と意識されていないことに気が付きました。
 こんなことを言うのは何ですが、事件の発端となった瑞穂の国小学校(旧安倍晋三記念小学校)にしても、――たかが八億円、スミマセン!――これだけ長期間に渡ってメディアを沸騰させる事件としては!――事件の発信源となった物件としては小さすぎるような気もしますし、もともと、曰く付きの土地であったような気もします。
 加計学園の出来事にしても、地域振興のためにバブルのころから以降、各地方の自治体で類似のものはたくさんなされたのではないかと云う認識を持っております。地域振興のためと称して、行政主導で行われた開発や誘致は、有効な選挙対策としても用いられた常套手段であるのに、なぜ「安倍案件」だけがこのように叩かれるのか、寧ろこのことの方を不思議に思います。――わたくしは、いつの間にか安倍さんの弁護人になったのでしょうか。
 そうではなくて、「安倍案件」の特徴は、なされた行為の規模や不正さの度合いよりも、それを言いつくろい取り繕う、安倍の嘘の方程式とも呼べる、言い逃れの技術、つまり従来の策謀型や嘘つき型の政治家の腐敗や虚無の構造とは異なった、「嘘も吐き続ければ、真実と等しくなる」と云う安倍の法則、安倍の定理とも云える図太さが、いっけん戦前の心情右翼の憂国や愛国の仮面を偽装して、戦後の政治史に登場してきたことの意味が大きいと、わたくしなどは感じております。
 早く言えばこういうことですね。――公金を使いこむことは悪い、あるいは何らかの対価を期待して政治を恣意的に利用することは悪い、しかしこれと、物証があろうとなかろうと、与党の多数決運営の技術を利用してのらりくらりと無限の期間に渡って言い逃れをすれば、「嘘もそのうち真実と同じものになる!」――つまり自然科学の歴史に於いてコペルニクスの世代が経験したような、もう一つの法則を、第一原理を政治史の舞台に於いて立ち上げる!――つまり、一世を風靡したポストモダン風に言うならば、パラダイムシフト、パラダイムの構造転換をもくろんでいるのではないのか!と、こう思うわけです。
 ですから、安倍政権が致命的なダメージを受けにくいのには次の三つの理由があるような気がします。 
 ⑴ モリカケ問題は、行政主導型、行政誘導型の手法として、地域振興の手段として利用されてい来た、ありふれた手法であるに過ぎない。決定的にそれが悪とまでは言い切れないのである。
 ⑵ 政権の中枢部である安倍晋三氏にしても麻生太郎氏にしても、いわゆる過去の汚職政治家の形を取らない、いわゆる私腹を肥やすタイプの政治家ではないこと。(心情右翼ではなくビジネス右翼であると云うことですね)
 ⑶ こう云う言い方をすればリベラルな方から叱責を受けそうですが、安部問題とは、「すみません」の一言があれば済んでしまいそうな、小さな小さな規模の出来事に過ぎなかったのではないかと云う印象を持っています。
 しかし出来事の規模の大きさ小ささに関わらず、あったことはなかったことにできる、嘘も突き通せば真実に等しくなると云う安倍の第一自然法則、第一原理、アベノミクスパラダイムシフト、については、結局は人間の信義に関わる問題として、究極に於いては言語や言葉に関わる問題として、やはり日本の戦後政治過程に於いて、類似のものが見いだせないと云う意味でも、画期的な出来事であった、とわたくしなどは評価しているところです。 
 
 前にも何度か述べたことですが、政治家と政治屋の違いは次のようであります。
 二院内閣制と代議員性に於いては、左右の潜在的な勢力の代理として左右の勢力があり、その各々の意思を代弁する形となるのはやむを得ないことなのですが、本来は集団的意思であるものと個人の意思とは違うものであるはずなのですが、代理的に言説を何度も何度も言ううちに、そのうちそれが自分の思想でもあるような気持ちになります。ジェスチュアを交えて連呼に連呼を重ねるうちに、自分が代理をしている潜在的勢力の意思と意志を、自らも信じている気持ちになり、そのうち信ずることが全てで、まるで国を代弁しているような気分になり、幻想としての国民と一体化しているような高揚した気分にすら捕らわれるようになるのです。そしてこれが偽物の代弁性である証拠に、かかる言説が元来より普遍性と不偏性と云うものを欠いているために、排他的になり他を攻撃するようになります。ファサードの表看板をいちまい捲れば、排除の論理や排他の論理、不寛容の論理が蠢いている、と云うわけです。こういう、必ずしも物質的な利害にのみは結び付いていない生物たちの生態を政治屋と云うのです。
 真の政治家とは利害の力学に基づいてリアルポリティクスに生きる点では変わりはないのですが、言葉や言説が集団利害を超えて実存の段階まで降りてまいります。実存の段階まで降りて来るとは、降り来る主観や主体が自己や政治家個人、ましてや安倍政治の場で云々された私性や私人などではありません。
 政治家とは、言葉に促されて言語によって促されます。それを主張できるのがこの局面に於いては自分においてでしかないこと、この日この時のこの場所に於いて自分を置いて他にないと云う断念の上に彼の政治的言説はあります。他の人では言えないことを、自分にしか言えないことを言葉に促されるようにして云う、自己の外から到来したものとしてある言語の権威に於いてそれを語る!それが実存の段階に於いて語ると云うことの意味なのです。
 誤解のないように言っておきたいのですが、いつもかつもこうであれ、と云う意味ではありません。それにふさわしい局面や場所に置かれた時に、人はそういう実存としての言語や言葉を語る人間になることができている、と云う意味です。それこそがかってカントが語った、人は生まれながらにして普遍人としてなり得ることができる――普遍人とは、カントの場合、学問のあるなしに関わらず、ものごとの成否を判断する能力は、先験的に人間に備わっていると言うカントの確信の如きもののことですね――と云うことの真意なのです。これは義務と云うよりもむしろ権利なのです。
 こういう人間をわたくしは政治家である、と呼んでいるのです。政治とは、人間に於ける普遍的な表現の学であると云う意味ですから、政治的人間であるとは人間であると云う意味なのです。