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中西輝政✖佐伯啓思「『保守論壇』の劣化が止まらない」 アリアドネ・アーカイブスより

中西輝政佐伯啓思「『保守論壇』の劣化が止まらない」
2018-05-03 15:41:11
テーマ:文学と思想

――憲法の日に。

 

 日本の右翼思想なり保守を大雑把に別ければ、固有の思想と云うよりも、心情右翼と親米右翼に類別され、後者の進化的一形態に至っては、むしろビジネス右翼なりネット右翼とでも称されるべきだ、と書いたのであった。
 これは、わたくしの立ち位置からこのように見える、と云うわけである。

 今月5月号『文藝春秋』において、京都大学系の保守思想の論客お二人が、保守論壇の劣化、と云う観点から、安倍政権の末期現象についいて論じている。
 特段新しい観点はないのだが、一つには、わが国には固有の保守思想というべき程のものは存在しないこと、憲法解釈をめぐって、これを外来種とすることについては――細かい論議は除くとして――概ね、リベラルの側に於いても右側の系統においても、それを根本的な無意識のレベルに於いては肯定し、前者に於いては個人の人権とか自由の擁護と云う観点から、一括すれば護憲主義と云う解り易い形態をとり、後者の方がその意味では屈折した対応をとりながらも、口では自主憲法などとは言うけれども、戦後進駐アメリカ軍によって齎されたアメリカンリベラルの立場を前提したうえでの、日米安保の傘の元での広報的言説と云う意味では、そう違いはないのだと両者は言う。なるほど、そういう観点から整理すると、アベノミクスに至る一連の自民的イデオロギーとは、開拓者的アメリカンリベラルの言説と云う意味で、思想的には「左翼」に分類されても可笑しくないと云う、イロニーが出現することになる。(笑)
 つまり日本戦後の左翼も中道も右翼も押しなべて、現行平和憲法の字面に現れた緒言説について云々し、そこからさまざまな政治的な立場を分化させたとは言っても、同じ穴の狢である、と云うのがお二人の言い分である。なるほどそうなのだろうなと、わたくしは思う。 
 むしろわたくしなどに言わせれば、本来、戦後の平和憲法をめぐる言説に於いて、良い意味でもそうでない意味でも一応思想の態を成しているのはリベラリズムの方であって、それへの反作用を保守なり右翼と名付けただけに過ぎないのではなかろうか。リベラリズムが冷戦構造の終結に伴うベルリンの壁の崩壊後、左翼的言辞が殆ど意味を成しえなくなると同時に、保守思想も等しく退潮を余儀なくされたのはそう云う、実体と影の関係にあったからではなかろうか。それで一連の保守思想がリベラリズムの影として機能しなくなって以来は、「北と中国の脅威論」、「隣国韓国への敵意の応酬」、そして「売国奴朝日新聞」と云う安っぽいデマゴギーだけが残されたのではないのか。
 つまりわたくしの考えでは、戦後の左傾化したリベラリズムの崩壊に伴って、それを補完する影として存在した保守思想と呼ばれたものもまた姿を消し――この現象がお二人の言う「保守論壇の劣化」と云うことだと思うのだが――つまり、戦後日本の戦後史に生じた真空状態を埋めるものとして、デマゴギーが要請された。そして、かかるデマゴギーを政治のアイテムとして、政治ビジネスとして利用しうると考えたのが安倍型官邸型政治の姿ではなかったのだろうか、と、かく考えるのである。

 元来、日本の保守思想は劣化しようがないのではないのか。と云うのもお二人が言うようにもともとないものは劣化しようがないと云う意味ばかりではない。保守なり右寄りの考え方とされたものは、リベラリズムの陰に過ぎなかったのだから。かって吉本が語用例としては違うのだが、「擬制の終焉」と云った時に、そのなかには当該のリベラリズムと左翼思想は含まれていたはずであり、そのリベラリズムと左翼思想までが「擬制」であると云うのなら、日本の保守とは、影のまた影、と云うことになりはしないか。
 これは余談である。

 最後に、この対談は、保守とは何かについて、良いことを言っている。言っていると云うよりも、学説史的には当たり前のことを久しく思い出させたのである。
 つまり欧州の政治思想史に於いては、保守とは、フランス革命の行き過ぎに対して、主としてイギリス側の反応に起源を持っている。つまり、保守とは反動なり右翼思想などとは全く関係のない、デモクラシーの理念は方向性としては認めるものの、急激な改革や改変については弊害も併発することから、古きを残しながら暫時的に改革、改良をしようと云う立場である、と云う。つまり狭義の意味での保守主義とは、イギリス由来のようやく18世紀に登場する、ようやく形を成しつつあった新しい思想の一形態のことを意味していたわけである。
 これをごっちゃにして、姑息因循な伝統主義や排他的な国粋主義などと一緒くたにして議論するから可笑しいのであって、こういう風に保守の原義に帰って論議すれば、アベノミクスなり類似の言説は何れも保守思想とは無縁の代物、と云う皮肉な結論になる。
 わたくし流にいえば、繰り返しになるが、リベラリズムと云う戦後の擬制の影のまた影として存在した反リベラリズムと反共思想がベルリンの壁崩壊後、本体の解体に伴って空中霧散した後に、保守主義もまた首を垂れて仲良く戦後型の殉死を遂げたあとに、空白をとりあえずは埋めるアイテムとして、凡そ荒唐無稽なデマゴギーが補完的な役割を果たしたし、いまも果たしている、と云うことなのである。

 中西と佐伯の保守についての考え方についてはこの辺にしよう。これはオーソライズされた考え方だから、特段反対の理由がないのである。
 他方、アベノミクスではない――つまり親米右翼ではない――「真の」保守思想の在り方としてお二人が考えているのは、親米ありきの施策ではなく、是々非々で日本の良き伝統も残しながら多面的に複雑な国際環境に対応する、と云うものである。
 わたくしも保守主義の一人としてこの考えに反対する謂れはないのであるが、現行憲法をどうするのか、どう考えるのか、については見解が分かれる。
 お二人の立場は、現行の平和憲法は――特に9条第2項に関しては――改正すべきだし、特に何が悪いと云って、現行憲法の「前文」ほど悪しきものはない、と云うことになる。要するに、「諸国民」うんぬん、と云う件が気に食わない、と云うのである。
 しかしなぜ一国の国家にとって「諸国民」がおかしいのであろうか。諸国民を主語態としてとる憲法が、一国国民国家の利害を主張する国際環境下のなかで不自然で非現実的であるとまでは言えても、それを理念的にもあってはならないあり方である、と断じることはできないのである。
 とくにわたくしの気になったのは、9条第2項の件り云々・・・よりも、お二人の「前文」に向けられた「敵意」である。

 わたくしとお二人の考え方の違いは、同じ保守思想の陣営に属しながら、保守を、前述のエドモンド・バークの、斬進的改革改善、だけではなく、保守を「日本の良き伝統」の如きものだけに限定しない点である。
 保守と云う場合の伝統とは、日本の古き良き伝統のことではなく、古典古代ギリシア直接民主制に於けるソロンのデモクラシイ―以降の、綿々と続いた紆余曲折の人類の解放史への懐古的詠嘆と感慨があり、慨嘆と哀切な嘆きの音調を聴きとらなければ、何を読んだと云うのであろうか。
 「前文」にはこのようにある。
 今日は憲法の日であるから、煩わしさを厭わず全文を引いておく。

日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。

そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。

われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。

われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。

(解説) この憲法の特徴は、日本と云う固有の一国民と諸国民の憲法である。第二に、語尾を特徴づけるものとして、誓う、信ずる、確認する、確定する、そして、決意した、となっている。つまり数千万に及ぶ戦争犠牲者を出した惨禍の後に、未然態として理想を述べるほかない暗澹とした人類の希望の原理を、上記、信ずる、確認する、誓う、決意した、と述べているのである。
 つまりこの憲法は実施された希有の実定憲法で有るとともに同時に学説でもあるのだ。


 つまり現行我が国の平和憲法の前文には、ギリシア民主制以降の二千年余の経緯を包括しながら、幕末から明治に至る、費え去った「御一新」の理想が無言のうちに偲ばれてある、或いはそのように多義的に読める。日本近代の民権思想については、自由民権論運動や、幸徳秋水の事件や大杉栄大逆事件などに限定的に、語られるだけで、草の根とも云える広がりを全国の津々浦々に於いて展開し希求しつつ消え去った無言の「明治の青春」については語られることはなかったのである。
 島崎藤村『夜明け前』において、草の根が狂気の沙汰として歴史の闇に葬られた記憶を辛うじて思い起こしつつなき父の生き様を文献に残しえたときに、そして樋口一葉が廓の世界との出会いのなかから自らの江戸っ子気質を批判的にイロニー化してみせたときに、これがフランスの文献に基づかない自前の民権思想に近づいていたことは明らかではないのか。国木田独歩が武蔵野の雑木林に美を認めたとき、そこには洗われるような日本人の恋愛感情の変化があった、夏目漱石が明治四十年代に『草枕』と『三四郎』を描いたとき、そこには作家の主観的な意図を超えて明治の青春が、その無残な残骸が描き残されていた。漱石の偉大なところは、近代作家として自らは意識的に描き落としたところを再度『それから』以降の作品に於いて鋭意取り上げようと努力した点である。単に作品の完成度だけを言うのであれば『それから』を頂点とする中期三部作に尽きるのだが、彼の動意の強さはかかる均衡をも破綻させもろともしなかった。
 日本近代文学史は、必ずしもこのようには読まれてこなかった。
 
 つまり現行憲法の慨嘆と詠嘆のなかには、かかる日本近代史の夜と闇についての記述も含まれているのである。お二人には、日本人としての近過去としての近代化日本の理解について、伝統の内容について、特殊限定的な偏りがあるように感じられる。

 アベノミクスについてもご両者とわたくしの間には同じ保守の思想と云っても隔たりがある。 
 お二人は安倍晋三について、保守とは所縁のない親米の追従者たち、と一括しているけれども、安倍晋三の問題を、エドモンド・バーク流の保守思想ではないとか、親米とか反米とかと云うレベルで論議していいのだろうか。
 安倍晋三が、いままでの自民党系の如何なる首班指名者とも異なっているのは、右とか左とか言うことではなく、あからさまな知性への反感が感じられる点である。2015年の安保関係諸法案をめぐる一連の経過を見て感じ取れるのは、法律や憲法解釈を通じての知的遺産、文化遺産、ひいては歴史意識への反感である。
 曰く、――憲法論議は、学者や学識経験者などが口出しする領域の出来事ではなく、教授殿や学識経験者たちは講壇で学生を相手に講義をしておればよいので、学問と憲法や法律の実施は彼らの営為とは別次元の出来事である!・・・・・等々。つまり学問と政治は別物だと云いたいのである。
 また、昭恵夫人に関する幾度もメディアを通じて流された美しき瑞穂の国小学校で君が代斉唱や今日一句直後を唱和する風景、感涙のあまり人も憚らずに夫人が涙をこぼす場面などなど、夫人の愚かさだけを特徴づけているように見えるけれども、また政権側もそのように見られている負のイメージを政権の温存の間接効果として利用している節もあるが、実質的には晋三氏が共有するイメージを拡大してみせたにすぎず、歴史ではなく、神話こそが大事であったことを印象付ける。なぜなら神話の意義のひとつには、歴史意識を覆い隠す意図ととして、今までにも政治的に利用されてきた常套手段であるからだ。
 この傾向は、安部第一次政権崩壊後の、彼の言う「美しい日本」の理想がすげなく国民に見捨てられた後遺症として、第二次政権以降、顕著になりつつある傾向であるのかもしれない。
 秋葉原での「こんなひと!」発言にもあるように、後遺症で傷ついた彼の仮面の背後にはあの時の、秋葉原の出来事以降の民衆への不信が心理的前提として強固なものとして残った。彼の一連の国会運営を見ながら強く感じたのは、自らの恣意的信念と愚かな国民と云う構図であって、兎も角にも民意を尽くさなくても自分が考えた法律や施策はよりよいアイデアであるのだからまず実施と云う形で既成事実化し、国民への説明はそのあとで適宜、適当、任意の後の時期に顔を見ながら方便的に対処すればよい、と云う考え方である。ついでに輪をかけて云えば、国民の反応が例によって無関心の方向を向くならばいっそのこと省略して済まされれば尚のこと、さらによい、と云うことになる。この説明はあとでもよい、出来れば無いほうが良い、と云うレベルの、話にもならない国民のレベルと、裏切られて以降の不信と蔑視感がついには言語と国民軽視の思想となり、言葉についてのあからさまな強弁と言い逃れを通じて真実を汚染し、遂には嘘も突き通せば何時かは真実になる。なぜなら真理や真実と云うものはプラトニズムが残した悪しき形而上学的な残滓、その擬制態であり、極限化すれば虚構の一部に過ぎないのだから、真理も虚偽も相対的であるならば現時点で結果のよりましな方を選ぶと云う、――安倍自身はこうした「高級」な言説を云々したことはないのだが――当時流行ったポストモダン風の考え方と一脈通じて世界思潮の衆愚化傾向の一端を担うことになったのである。(言語への不信と国民蔑視、結果としての衆愚化の技術は、言語と言葉へのあからさまな敵意を通じて、ミスタートランプ、プーチン習近平金正恩と云う、個人崇拝系の思想家に共通する現象である。)