アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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フランス近世文学に見るファムファタールの諸相――運命の女論 アリアドネ・アーカイブスより

フランス近世文学に見るファムファタールの諸相――運命の女論
2018-08-05 09:44:22
テーマ:文学と思想


 まあ、大きく出ましたね!それほどフランス文学に精通しているわけでも、近世のフランス史や女性論、ジェンダーについて正規に学んだ経験があるわけでもない私が書くことですから、どうか視覚の狭さはご容赦ください。あらかじめ元手になった資料をあかしておきますと、次の四つの小説をベースとして論じます。

 『クレーヴの奥方』1678、
 『マノン・レスコー』1731、
 『危険な関係』1782、
『アドルフ』1810、
 あと『ドミニック』1862を入れたいのですが、思っていたよりも図書館でも入手しがたく、アマゾンに頼るしかないかな、と思っています。それと脱線して小言のひとつも言いたくなるのは、政令指定都市の公立図書館で、かかる知名度の高い作品がないと云うのも、不思議なお話になりますが。
 ついでにファムファタールについても、よくご存じのこととは思いますが、共通の認識を持つことにしましょう。例えば――

”男にとっての「運命の女」(運命的な恋愛の相手、もしくは赤い糸で結ばれた相手)の意味。また、男を破滅させる魔性の女(悪女)のこと。”(Wikipedia
 
 など、如何でしょうか。とりあえずはこれを論議の基盤としましょう。共通理解がなければ論議が成り立ちませんので。
 第一に『クレーヴの奥方』1678とは、私流に読めば、理想的な愛の三角関係を理想とする奥方に二人の男が翻弄される話です。一人は夫、もう一人は当時の王朝的社会で瑕疵が付け難い美男子の男丈夫です。つまり、ひとりはこの上ない思いやりのある夫で、もう一人は誰もが恋人に持ちたいと望むほどの美男子なのですね。この三角関係の顛末は、夫の衰弱死――恋の長患いのようなものですね!――と、恋人の疑心暗鬼、その結果としてヒロインの「半!修道院入り」と云う、貞女を守り通したお話として完結するのですが、お笑いですね!これが何百年間もの間、貞節をめぐる高貴なお話として読んでこられたのですから、文学批評史とはおかしなものですね。
 端的に云いましょう。これは女と生まれたからには、かくあって欲しいと願う願望の極限を描いたものなのですね。女として生まれたからには家庭では思い遣りがあって優しい理解のある夫を持ち、家庭の外では恋人と過ごす時間をスリリングな緊張感のなかに過ごし、且つ、至福の時間を長引かせるために、言質を決して与えたはならないと云う、女の道なのですね。そう、勝ち組である女の道なのです。正直なところ、皆さんこのようなタイプの女性に関心がありますか?
 こういう手前勝手な話が正々堂々と、古典として通用してきたと云うのも古今東西不思議な話です。こういう気位だけが高い女を何とかすることはできないのでしょうか。
 それが第二にお話したいラクロの『危険な関係』です。これは後程とりあげますので、少々、お待ちください。

 『クレーヴの奥方』の欠点は、女の勝ち方の仕組みを手ほどきする以上のものがないという点です。女である以前に人間であるとはどう云うことであるのか、と云う内省的省察がまるでないのですね。人間としてどう生きるか、どういう生き方が階級社会のなかであの段階で最良であったのか、と云う疑問と云うか問題意識がまるで不在なのです。階級社会社会と云うシステムをまず前提条件として認めてしまって、そこでどう優位に生きるのか、処世の話にしかなっていないのです。愛の情熱と云うものがまるで語られていないのです。暗に相違して近世フランスの女性は愛を語ることに於いて下手ですね。すぐる数百年も前のアベラールとエロイーズの往復書簡集などをどのように読んできたのでしょうか。

 第二に取り上げるのはアヴェ・プレヴォの『マノン・レスコー』1731です。
 この古典もまた運命の女・ファムファタールを描いた元祖としての作品として古典の名をほしいままにしているかにみえます。しかしマノンとは誰でしょうか。この小説では人物描写において恋人を語る固有な記述がなく、紋切り型の、魅力的な女性である、女性として美しい人である等々と語られているにすぎないのです。つまり読了したうえで申せば、マノンとはありふれた凡庸な女なのですね。その女がなにゆえに、語り手の眼に魅力的に映じたかは、その歴史的背景を少しだけ考えて見なければなりません。
 『マノン・レスコー』は『クレーヴの奥方』よりほぼ半世紀ほどののちの作品になります。平凡で凡庸な女が運命の女、ファムファタールに見えたのは、それが近世のフランス王朝社会と云うフランス革命以前の旧社会がアンシャンレジームとして没落していくと云う過程から見られたからにほかなりません。つまり勃興しつつあるブルジョワ社会なり芽生えつつあった自由平等の概念は、まさに旧体制を破壊するものとして見えたというにほかなりません。つまり階級間の力学が、「運命の女」つまり悪女の姿を帯びて登場したにすぎません。ですからこの小説のみそは、ついに語り手も主人公もこうした認識を持つことはなかった、と云う点なのです。むしろ今日の眼から見れば、階級制約に縛られたままの正直な意見表明が資料として興味深いのです。
 ついでに申しておくと、ヒロインのマノン・レスコーは、準流刑地とも云えるアメリカ大陸の一角でついにここまでも自分を追い求めてきた恋人のなかに至誠の感情を認めることになります。彼女はそれが真正の恋愛感情であることを意識しませんが――自身の負い目のようなものとして理解している――前にも述べたように、彼女が階級社会的観点から自由でありえたのは、当時ブルジョワジーと呼ばれたものが持っていた開放的なイデオロギーによるところが大きいのです。愛に対する執着と云う意味では遥かに卓越していたはずのヒーローにかかる変化が生じないのは大変に興味深いことだと思います。

 三番目の『危険な関係』1782になりますと、分かり易い形で運命の女と云うか、悪女と云う概念にぴったりの女性が出てまいります。彼女は同じ悪の男爵を唆して、処女と貞淑な夫人をいかにして陥落させるかと云うゲームに熱中します。そのゲームの過程をやり取りした往復書簡がテクストそのものになります。勧善懲悪と云う枠組みを借りて語る物語の起承転結は、ちょうど『マノン・レスコー』とは逆になります。つまり悪を体現したかに見える二人には思想と理念とも云える心情があって、それは既存の道徳や価値判断を一旦は破壊してみせることでした。かかるエネルギーはフランス革命にも共通してあり得たことで、かかる理念を極限化した場合にもたらされた不幸と云うか悲劇は、後のジャコバニズムを予感さへしていて、流石と思わせるものがあるのです。ここでは危険な関係と呼ばれる危険なゲームに関わったものを勧善懲悪の倫理観で裁断することでもなければ、絶対的な自由、を非妥協的に遂行することを賛美することでもないのです。現行の腐敗したシステムを否定するあまりに観念的な過激主義に走るもの達の末路を描いたものとして、とても感慨深い作品なのです。この作品がフランス革命の三年前に書かれたことの意義は大きいと思います。

 最後にコンスタンの『アドルフ』1810。近代的な愛の理念を追求したあまり、それが次第に負担になっていく。近代主義的愛の概念といっても、理念としては永劫不滅の古びることのない理念ではあるが、生身の人間は理念どおりに生きることは不可能である。
 アドルフの側には二つの誤解があったのだと思う。つまり実際の愛と愛の概念を混同したのである。愛の理念に忠実であらんとするあまり、実質の愛が目に入らなくなったのである。概念としての愛は、愛に基づくと云うよりも学知や学説に基づく。学知や学説へのこだわりは、彼の自尊心や虚栄心と親近性を持つ。結局のところアドルフの悩みは愛そのものと云うよりも、愛そのものと愛の概念の何れを選ぶのかと云う問題だったのである。
 アドルフの二重の誤解とは、愛とそれについての概念を混同したこと。「程々の愛」としか見えなかった現実の愛を評価する手順をとれなかったこと。愛に対する裏切りは一度目は愛の慣性化と愛の変質と云う誰しもが味わう時による腐食作用において。二番目は愛の概念に拘ると云う意味で、女をかくも長年月間に於いて飼い殺しの状態に置き、二重に苦しめたことである。