アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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紡ぎ出されるアリアドネの恋愛論――『ダロウェイ夫人』を読みながら――黄昏のロンドン・4 アリアドネ・アーカイブスより

紡ぎ出されるアリアドネ恋愛論――『ダロウェイ夫人』を読みながら――黄昏のロンドン・4
2019-03-26 08:46:48
テーマ:文学と思想


 同性愛については、識者やその方面の専門家?の方からみれば凡そ見当違いのことを書くと思いますので、なにとぞご容赦ください。

 愛、いわゆる異性愛と同性愛の違いは、前者が身体的な結びつきを前提とするのに対して、後者は、もちろんそれもあるだろうけれども、実存としての愛と云う、名の共通項があるのではないかと、想像している。他方、実存を固有の条件とする人間の関係の極は、友情である。であるから、簡潔に図式化すれば、左側に身体的な結びつきを必要条件とする異性の愛を、右側に実存的な条件としての友情を置けば、同性愛はその中間に配置することができるだろう、と思う。
 これを図式化すれば以下のようになります。

(身体的結合)異性愛――同性愛――友情(実存)

 つまり身体的結合と実存と云う二要素の濃淡によって、区分しようと云うのである。

 ここから、ちょっとした思い付きを述べれば、異性の愛とは、身体的な結びつきを十分条件とまでは言わないにしても、必要条件としてあるわけだから、プラトニズム的な考え方からいえば、身体的な条件によって保証をえなければならない愛の形は、形式としては弱いものがあるのではないかと考えている。
 友情と云う人間関係が、けっこう長続きするのはこうした事情があるためではなかろうか。

 しかし翻って鑑みるに、図式論的には優位にあるはずの友情が、愛に適わないのは何故だろうか。友情からは、生死をともにする、この世を超える、と云う契機を欠いているようにみえる。友情には、必然的にある距離感と云うものがなければ、長続きするものではない。
 それでは友情が、いわゆる「友情」の自己限界を超える段階は如何にして可能か?
 それは友情が、友情の概念に同性愛の概念を重ね合わせ、実存と身体的な結びつきを共にアウフェーベンする場合である。この場合同性愛は、友情の完成態として現れ、他方同性であるがゆえに身体的な条件は必ずしも必須のものとはされず、愛の自律的法則性によれば身体性の純化が精神性の純化と一致するわけであるから、身体性の克服が論理必然的には要請される。これはどういうことかというと、愛の純粋性が持つ苛烈さに身体は堪え得ない、ということなのである。精神的な愛と身体的な愛のバランス(夫婦愛)などと云う考え方もあるけれども、愛の法則性からいえばこちらの方が正統的なのである。
 異性の愛は、同性愛に及ばない、と云う結果になる。

 同じ事情は異性愛においても生じる。異性愛が自らの限界を突破するためには、友情と云う概念を自らに重ね合わせなければならない。愛に実存を重ねるとは、自らの固有な在り方を反省的に理解することであり、固有な愛の極限態においては、愛と孤独は背中合わせのものとして感じられる。固有な愛の絶対性の前に、現世的な恋人の姿は陳腐化する。この段階の愛は、ゲーテが言うように、「たとえ私がお前を愛していたにしても、それがお前と何の関係があるだろうか」ということになる。
 つまりこの段階以降においては異性愛と同性愛の区別は意味を失うだけでなく、いわゆるゲーテの場合は、対象愛と云う概念自体が存在しない。
 ゲーテの愛とは、恋人のいない時間である。

 先の関係図に『ダロウェイ夫人』の人間関係を二段表示で重ねれば、以下のようになる。

(身体的結合)異性愛――同性愛――友情(実存)
ウォルシュ――サリー・シートン――ウォルシュ
(友情)  ――  (友情)  ――  (友情)
 
 『ダロウェイ夫人』の関係図が典型的な図式になり難いのは登場人物数が足らないということもあるのだが、彼らの人間関係が三十年の長きに渡って維持され継続され、時系列のなかで変形、変質しているためである。具体的には、異性愛、同性愛、何れにおいても、友情の概念を既に含んでいる。クラリッサとピーターの関係は今日に於いては友情の方により近いし、サリーとの関係においては彼女は完全に別の人物になりおおせている。同性愛とは、サリーの場合は、思春期と云う束の間の特権的な、過渡の産物だったのである。

 プラトニズムの観点からいえば、異性愛においても友情においても、同性愛が理念型の理想として現れる。
 概念としての愛は性を超越しているのであるから、自分自身を男と考えることも可能だし女と想定することも可能である。つまり両性具有の愛となる。愛の対象は、現実的には具体的な性を持ってはいるが、個々の愛に於いては男性の形をとったり女性の形をとったりする。
 他方、愛される対象の側でも、自分をある時は男性として、ある時は女性として理解する。シェイクスピアの舞台劇においては、しばしば愛は変容する愛の自在態としてメビウス的変態として現れるし、同時に性差の交換劇としても描かれている。

 とはいえ、やはり愛は女神の形をとって現れる、性差による男女の愛の概念はイメージとしては平等ではないのである。愛するものは、愛する対象を理想化するし、理想化の過程で、もし彼が女性であるならば対象もまた女性化の形姿を次第に取るようになる。もし彼が男性であれば女性化した姿をとるようになる。つまりあらゆる愛は同性愛と云う経緯を自らをの内に潜ませている必要がある。同性愛は性差の転換と云う契機を秘めている。
 同様のことは愛される対象の側でも生じる。もし彼が男性であれば、男性であるがままに女性らしいしなやかさ、繊細さで愛を受けとめるようになるし、彼が女性であるならば男性化された気持ちで相方を思い遣るようにもなる。愛はか弱きもの、保護されたものとされた在来の価値観や固定的な女性観から、愛の逞しさを自覚するようにさへなる、愛の強靭さ、愛の強かさと言う愛の形ですら、場合によってはこの世に愛の風景として成立させる。
 いわゆる、世の中で流布されている、男性美、女性美(例えばハリウッド美学‥等)、は時代に都合よく造られたものであったことが分かります。メディアの現象と愛の真相とは何の関係もないのです。

 つまり結論はややショッキングではありますが、理念的法則性としての愛は、必然的に同性愛の方向に進む、と云うことですね。愛の本来的理解のためには、同性愛の経験が不可欠、ということになります(実際に行為としてあるか、と云う意味ではありません)。それは同性愛が、いまあるメニュのなかでは、愛の理念的法則性を最も体現しやすい愛の形である、という理由であるからにほかなりません。
 このような観点から見ると、自由恋愛とか恋愛結婚とか夫婦関係における身体的なものと心的なものの平衡と云う考え方なども、愛の理念的法則性の純化の過程と云うよりも、ほどほどの処世の手段、と云うことになります。ましてやアバンチュールなどと云う考え方は、最初から理念性を目指していませんし、むしろ人間的価値に対する挑戦と云う、暗いサタニックな情動をもっているので、むしろ恋愛論の範疇の分類するよりも、精神病理学が該当する領域である、と考える。
 ヴァージニア・ウルフ両性愛の持ち主であったことは伝記的事実として知られているが、理論的に説明できる、とは考えていない。この問題については、また稿を改めて考えてみたい。
 難しいのは母性愛をどのように考えるかであるが、この愛の形式は身体的和合を記憶として持っているし、現勢態としては、愛における実存と云う考え方を知っている。同時に、身体性からの脱却であるとか、愛の純粋性がその他の利己的な動機に曳づられて成立しにくい、という事情がある。つまり愛の固有性が身体性や血縁性に結び付けて考えるので、愛の理念化と云う契機を奪ってしまうのである。

 さて、最後に、これはウルフの問題域を超えるけれども、性差を超越した愛、対象愛の概念自体が陳腐化し無意味化する、ゲーテの恋人のいない時間、について考えてみよう。
 異性の愛は、身体的な結びつきを必須の条件として備えているかに見える。恋の和合の混淆と高揚の過程で、精神的な愛と身体的な結合の要請は、ある程度までは手に手を携えて二人三脚で進むように見えるが、――そして幸せな恋人たちの時間と云うものはこの段階で終了するのだが、特殊な場合はここから一歩進んで、限界域を超える場合がある。つまり対象性愛が意味をもちえなくなるのである。この段階を超えると、自分や相手が愛に関してどうあるかではなく、愛自身が自らを語る、という段階に到達する。愛の自己開陳である。愛の高い気圧に精神も肉体も堪え得ない。
 この圏域に突入しますと、未知の領域を経験するのだと云う気分を新たにします。まるで機銃掃射を受けた戦闘機のように蜂の巣状に打ち抜かれた内部から噴き出す炎によって火だるまになります。燃焼は焼き尽くすまで続きます。余分なものが次々と身心脱落していく感じ、やがて燃焼の果てに白い切片を残して、自らを貧しきものと認識するようになります。自らを取るに足りない存在だと思う気持ち、謙りの精神が誕生します。
 この時生じる貧しさや取るに足らないものの感じ、謙りの精神は何か人間の原型がこうでもあったか、とでもいうような単純さへの回帰があります。――古来言い伝えられてきた愛の概念の復活に、もしかしたら自分は立ち会っているのではないのかと、ふとそんな気がするのです。
 しかしわたしたちは愛の奥義に達したと思えたとき、そこには誰もいない荒涼とした世界が展開するばかりなのです、恋人のいない時間、人の気の途絶えた寂寥と沈黙世界が広がるばかりなのです。しかし意識はこの時、高揚された緊張感の持続のなかで限りなく満たされてあるのです。私はのちにエロイーズがアベラールを阻んだ経緯を、同様の軌跡として、認め得たと信じたのでした。

 性差を超越した愛、対象性なき無限焦点の愛の極限態として、わたしたちはキリスト教における愛を概念を知っている。
 つまりゲーテの、極限態としての愛とは、好き嫌いは別として、いくらかキリスト教の神に似ているように思うのである。