愛の殉教者たちに奉げる――メリメの『エトルリアの壺』とリラダンの『至上の愛』と アリアドネ・アーカイブスより
愛の殉教者たちに奉げる――メリメの『エトルリアの壺』とリラダンの『至上の愛』と
2018-08-23 11:18:45
テーマ:文学と思想
プロスペル・メリメ(Prosper Mérimée, 1803年9月28日パリ - 1870年9月23日カンヌ)の『エトルリアの壺』とジャン=マリ=マティアス=フィリップ=オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン伯爵(フランス語: Jean-Marie-Mathias-Philippe-Auguste, comte de Villiers de l'Isle-Adam、 1838年11月8日 - 1889年8月19日)の『至上の愛』を読みました。
後者のリラダンの『至上の愛』の方から云いますと、とても分かり易い愛についての解説が読める本ですね。一筋縄ではいかないと思いますが、この小説に限りシンプルです。
遠い昔、郷里のブルターニュの古城で兄妹のように育った女性との、パリの華やかなパリの舞踏会での再会、そして別れを描いたものですが、愛の至高性を遵奉するあまり世俗の愛を断ち切る女性の懊悩を描いています。懊悩は直接には描かれません。あくまで語り手の眼を通して、濁れることのない認識の冷徹と、決然とした行為のひととして描かれているのですから。
しかし何ゆえに厳格なカルメル会への入信の儀式を語り手に見せる必要があったのでしょうか。決断のゆるぎなさは語り手の魂を根底から揺すぶります。愛の切断は語り手に深い感銘を残します。意志の冷厳さは冷酷さともみえ、あまりにも軽々しい現世への軽蔑を一方に際立たせ、他方では精神の超越性を前にして抗うすべもなく実存の根底が底から抜けてしまう感じなのです。
リラダンの愛についての考え方とは、恋とは半ば対象に奉げられた自己愛の半身に過ぎない、と云うことになります。相手に投影した自分自身の幻像を愛するにすぎないと云うのです。だからイマジネーションとしての愛は何時かは自己愛としての愛の限界を露呈し、自らの想念とは異なった他者の像に裏切られる運命にあると云うのです。多くの恋愛の収支決算は格の如しと冷厳な法則の如く語られもします。
だから愛の観念を裏切らないためには、世俗性や肉体を断ち切るほかにないと云うのです。分かり易い考え方です。肉体と云う物質性は、観念としての愛の至高性にとっては障害物である以外の何物でもないのです。人生は観念や愛の至高性の概念に比べたら、者の数でもないと云うのです。人生より大事なものがある、貴族性社会末期のリラダンはこのように考えたのでしょう。
ヨーロッパにはギリシア以来のプラトニズムの伝統がありますからこうした結論を導くのは容易であったと言えるでしょう。しかしプラトニズムとは学説として唱えるに容易で実際にそれを生きてみることは困難です。人間死ぬまでは生きているわけですから、それまでの間の世俗との付き合い、もっと言えば自分自身の肉体との付き合いをどのように考えるか、かかる二者間の緊張の持ち方に寄ってその人の人生は随分と変わるものです。もしリラダンのこの小説の男女のように真っ直ぐに生きられたら大変人生はシンプルになっただろうと言えるのです。
しかし最後に、意志強固な娘がなにゆえにこの世への惜別の一瞥を与えるのか。未練とも云えるし、語り手への語り掛けとも云えるし、何といってもそれほど自分は一人の女性に愛されていたのだと考える男の夢想の自己満足を指摘するのは過酷に過ぎるでしょうか。ここにこの小説の限界があります。
つまりプラトニズムとは言っても、単なる主観的な概念の尾が切れていないのです。愛とは主観的な観念の類似物に過ぎないのでしょうか。また肉体とは精神にとって障害としてのみ働く不純物に過ぎないのでしょうか。愛は概念であると同時に実在でもありうるという認識がここには欠けております。実在とは同時に現実を超えたものであって、愛や信仰と云う様式のなかにしか姿を現さない形式なのです。愛を利己的に問うても、実人生の経験を広く尋ねても得られない形式なのです。愛や信仰が信じられない時代にあっては、例えば芸術や文学のなかにこそその実相は捉えることができます。つまりリラダンの恋愛論は十分に文学的ではなかったのです。同時に愛について十分に幻想的でもなかったのです。愛や実在の概念がこの世の処世や経験と云う形式のなかには現れないと云うことは、それが十分に幻想的な性格を持っていると云うことを暗に語っているのです。
時代は遡りますがメリメの『エトルリアの壺』、これは愛を信じ切れなかった男の哀話ともいえるべきものです。知力、経済力、社会的位置にも恵まれた並みの上流を行く男が、つまらぬ仲間同士の噂話から恋人の愛を人事ることができず、行き掛かりの決闘で命を失う、と云うものです。
人は愛に憧れ、様々な雑多の愛を遍歴するのですが、自分自身を超えることのない愛と云うものは、所詮は儚い偶発時に操られて自滅する、人生とは何だったのか、つまらない人生だったなぁ!と云う感慨がこの小説にはあります。
とは言え読み終えて私たちはメリメの描くところの愚かな男を非難したり軽蔑したりする気分にはなれないのです。この男は同じメリメのカルメンに出てくるホセの気質的な親戚にあたる男なのでしょうね。私たちは愚かさゆえに身を亡ぼす男を冷たく突き放す気分にはなれません。愚かさのままに愚かさに殉じると云う至高性ゆえに、それが何ゆえにかの感慨を私たちのうちに齎すのです。
通常私たちは愛とは遠くにあるものと考えがちですが、愛は思いがけずも身近にあって、それに私たちは愚かにも気づかない、偶然性が持つ無情と無常、非情と非常――別様に考えればそのように恋人の前で死んで見せると云う形で愛に報いたと云うのですから、愚かさも至れば至高なものが幾分かは交じっているものなのです、あるいは愚直さなのなかに等価存在としてある至高なるものと言い換えてもよいでしょう。そのようにも感じました。
優しさを愛の有史以来の殉教者たちに奉げます。