アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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グレアム・グリーン『情事の終わり』――黄昏のロンドン・64 アリアドネ・アーカイブスより

グレアム・グリーン『情事の終わり』――黄昏のロンドン・64
2019-05-18 11:37:03
テーマ:歴史と文学


 善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや (歎異抄

 グレアム・グリーンのこの小説は、男女にかかわる二つの意外性を描いています。恋愛小説にしてサスペンスであると云う不思議な二重性がこの作品にはあります。
 
 ひとつは標記の歎異抄に述べられているという、親鸞の言説。似ているのですネ、グレアム・グリーン描くところのカソリックの言説と。歎異抄の場合、イロニーが効いているのは、親鸞の文才にも寄るのでしょうが、背後に控える文化的な背景を感じることなしには読み取れません。
 同様にグリーンの小説もカソリックの伝統を踏まえていると思われます。主人公の三文作家は、高級官僚と云う人種を取材するためにヘンリー夫妻に近づきます。どこか不思議な男性的な魅力があると思われる主人公は直ぐに妻のサラァに近づいてものにしてしまいます。お人好しのヘンリーは長いことこのことに気づくことがありません。
 不純な動機、それが邦訳では”情事”と名付けられました。LOVEとAFFAIRの違い、新潮社版の翻訳者田中西郎氏の解説があります。後者は必ずしも好ましからぬ意味合いで使われているわけではありませんが、日本語で言う浮気とか不倫と云う意味合いがあるようです。
 さて、作家であるゆえに他よりは少しは知的に勝っていると己を過大評価しがちな語り手が愛と云うものを信じられないままこの小説は終わります。ですから、標記の歎異抄の言説を翻案すればこうなります。
 純朴な若者たちの間にすら愛は存在するのであるから、いわんやこと知りたる中年男が愛欲の絶望の底から願ったことが、それが絶望の呻きであったにせよ、愛に似ていないわけがない、本人はそれと知らずとも、――と、こう云うことになると思います。

 二番目は、自らに言う「淫蕩なインチキ女」が聖女であった、というお話。下心を持って近づいてきた男(語り手)の愛を疑わず、恵まれた環境と美貌のゆえに嫉妬と憎悪と猜疑心から、私立探偵を使ってまで公私にわたる言動を監視し続けた男の執拗さにも関わらず、ロンドン空襲の日、爆撃で死んだと思った男のために、自らの命に代えて神に祈る、という物語。
 ところが死んだと思っていた男(語り手)は生きていて、聞き届けてくれた神のために自らの命を奉げる、というお話。この逆転劇が生じるのは、いよいよ男の愛への確信を深め、夫に離別の置手紙を手にして出ようとしたにもかかわらず、種々のつまらぬ偶然でそれが妨げられ、男との愛の生活を夢み、自由な生き方に憧れながらも、その生き方の放埓さ、放恣を罰するかのように神は残酷な「奇跡」を演じて見せられた、というもの。やがて彼女が二歳のころ秘かにカソリック秘蹟を受けていたことも明らかになる。

 いったん「奇跡」を呼び込むと、その周囲には様々な奇現象が集まってきます。病身の少年が医者に入院を再三にわたって催促されていたにもかかわらず、夢の中に現れたサラァが患部に手を触れただけで平癒するとか。今後も起きるであろうカソリック流の「奇跡」の集合を予感して語り手はうんざりして言う、「あなたは狡猾である!」と。

 語り手が探偵を使ってまで確かめたかった恋人サラァの、情事の背景にいる男――ミスターXとは、「神」であった、と云うのがこの小説のおちになります。

 この小説の難しさは、語り手の前途には容易にカソリックに回心する道は程遠い、と言う暗澹たる気分を残して終わっていることです。グリーンはカソリックの作家と言われていますが今日の時代を考えますと容易には信条告白がしにくい事情があるためと思われます。標記の歎異抄にも通じるような、否定の否定、無限否定でしか信条告白は可能でないと云っているように思われます。
 他方淫蕩で淫乱の相がある女、サラァは、「情事」を「愛」に変換するためには、自分の此の世における一番大事なものを犠牲に奉げる必要がありました。彼女はこの世にないものだと思っていたものを男の中に再発見しました。それはこの世を断念する、という選択肢でしかありませんでしたが。

 今回、ロンドンを旅して、二人が住んんだ、スクェアと云う名の小公園を境にして南北に住んだ、愛の物語の舞台が少しは具体的に映じるようになりました。また、具象的な聖遺物に満ちた、カソリック教会の雰囲気も。日本にいますとこれがキリスト教であるという先入観故に異様とも異質とも感じられないのですが、聖公会プロテスタントの雰囲気の中に於いて見ると異質さは際立ちます。その異様さや異質さへの驚きがなければ、たぶんこの小説の秘蹟は起きなかったでしょう。
 この物語は、空襲下のロンドンと云う、日常性が遮断された限られた時間のなかで生じました。平和な時代が到来するとともに、愛の物語も終わらざるを得なかったのです。
 

 少しばかりの知恵と賢しらゆえに愛を信じなくなった男と、不本意な夫婦生活を送る倦怠から愛を求め、複数の男の影を遍歴する過程で最後に神と云う名の「男」に遭遇する不思議なお話です。
 ついでに申せばサラァと云う名前はキリスト教の世界では、生まず女を隠喩として意味します。アブラハムの正妻でありながら子を成すことをできず、女奴隷の力をかりてまで産もうとするのですが、子を産み得ないのは彼女が神の嫁であるからなのですが。そをれを知らずアブラハムは曖昧な行動をとってお人好しの寝取られ男の役を演じ続けます。小説の中ではヘンリーと云う高級官僚がこの滑稽な役を演じています。語り手とヘンリーは最後の方では一つの家に同居するほど仲良しになるのですが、不甲斐ない者同士の運命共同体と云う趣きです。昔々、『真夜中のカウボーイ』と云うアメリカ映画がありましたが、あの情けない去勢された男同士の友情と関係を思い出しました。
 人は尚も悟ることはできず、蛆虫のように地を這い世俗をのた打ち回るだけなのですが、やはり神の恩寵と云うものはあるらしく、汚濁に満ちた現代と云う名のこの世であっても、神は既に顕現している、私たちの知らない間に、例えばこのようなイロニーの形であるならば!
 まるで孫悟空とお釈迦様のお話のようですね。
 
 さて、皆さまはこの小説を読んでカソリックの神を信じたいと思われますか。