アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ジロドゥ『エゴイスト・ジャック』とコクトー『山師トマ』ーー生のなかの虚構或いは虚構のなかの生 アリアドネ・アーカイブスより

ジロドゥ『エゴイスト・ジャック』とコクトー『山師トマ』ーー生のなかの虚構或いは虚構のなかの生
2018-08-27 01:40:39
テーマ:文学と思想


 ジロドゥの『エゴイスト・ジャック』は表題のとおり「エゴイスト」と云う言葉がキーワードになっている。資本主義社会であるを問わず、エゴイストと云う表現には致命的な感じがある。相手を敵として攻撃する場合に有無を言わせない響きがある。ところが実際には市民社会と資本主義の論理とはエゴイズムの論理を基礎に成り立っていると云うのに。本当のことを言葉であからさまに表現することがある種の禁忌事項に触れる、それが人間として最低の評価を意味することは何も市民社会と資本主義に固有のことでもないのだが、社会の実態が秘匿されたエゴイズムの原理で成り立っていることを公然化できないが故にある種のいっそう不潔感が際立つのである。ちょうど教育の現場が本当は優等生を規範とし競争原理を前提としているのに融和と協調、そしてを多様性の美徳を先験的にも教条主義的にも説くように。日本の日本企業「型」の社長やおやじが、単なる金儲けや商い行為を家族愛や師弟愛の言葉ではぐらかし、美化し飾り立て搾取し隠蔽する裏腹の心情と似ている。

 ジロドゥの同書に於いてはそこのところが少し違う。要はフランス文化に関わっている問題なのだ。エゴイズムの論理が隠された論理としてあるとき、一切の人間の喜怒哀楽の感情などは造りものじみてくる。そうした自然性を欠いたもの、人口的なものの環境に甘んじることはできるが、そうした人々のことを本編の主人公であるジャックと呼ばれる青年は「かれら」と名付けて、意識のレベルから排除している。この場合、彼の価値判断を規定する無意識の濾過紙のようなものを半ばすり抜けてくる希少な存在として、つまらぬことに感動し日々些事に感動を繰り返してやまないエチエンヌ青年、何事にも真剣過ぎて重すぎた存在を持て余しているエディット、死の親和性を隠し持っている淋しき存在アンドレ、そして過去に大きな痛手を受けながらそれが風化作用によってちょうど古代の神殿の風化の過程を辿る女神の像のように破壊された美、没落の美をそこはかとなく湛えた老いた美女、サント=ソンプル夫人がいる。彼がこれらの固有で希有な性格を受け入れられないのは、彼らの人格や性格が異質であったりまた疎遠であり過ぎると云う理由とは真逆の、余りにも彼らの心情を理解できてしまう故にでしかない。それゆえ彼は彼らの前に素直に自らの本心をさらけだすことができない。曝け出すことができないから何時も彼らと会った後は苦い自己嫌悪の悔いを残す。つまり彼らは自らは語らずして自らの本性を自然に露呈させているのにたいして、彼残す方は逆に韜晦のなかに自己を晦ます。そういう二面的な姿勢が彼らの眼には卑怯であるとも、「エゴイスト」であると云う風にも見えるのである。
 エゴイストのジロドゥ流の定義では、人間的感受性のあり方が自然とは切れている、絶縁された状態にある、と云う意味らしい。つまり自然児ではないと云う事態である。(ここにフランス風の意味での「自然」とは縁が切れる、自然児ではないと云う意味は、文明を経由しての意味で、ワイルドや未開な状態の人類を意味しない。念のため。)またあらゆる世界文明のなかで神秘を持たない、ーードイツやロシアが想定されていると思われるーー明晰判明と云う意味でフランスの文化のみが、自然と切れた文化文明であると云う意味になる。
 エゴイストとは自意識過剰の別名であり、最後にそういう自然と切れた唯一の文化であるフランス文化に興味を持つアメリカ人女性ミス・スポッティスウッドと出会う(通常フランス「文学」は自意識過剰の文学と思われていて、フランス「文化」が自意識をサンスやエスプリによって克服した、自然とは切れた都会の文化だと考えることのできる日本人は少数だろう。フランスでは「文学」と「文化」は違った在り方で社会と個人の意識のなかに存在しているのである)。それと云うのも文明の最後の女であるサント=ソンプル夫人のある種の精神的な遺言ーーある種の洒落たフランス風お見合い?ーーによって二人はどうやら結ばれることになりそうなのだが。それでは何故アメリカ人女性が彼の警戒心を解除できたのだろうか。それは彼女が文明人でありながら未開性を残した「アメリカ人」と云う新種の種族の一人であったからに他ならない。第二には、どうやら彼が冗談めかして語っていはいるけれども本当は愛していたらしい夫人の熱意あるご推薦の賜物なのだから無下に退けるわけにもいくまい。サント=ソンプル夫人とジャックが率直に恋や愛の世界に突き進めないのは、二人の年齢差、社会的身分、生理的寿命‥等である。サント=ソンプル夫人の魅力とは、自らがフランス文化の終わりを体現しているからに他な
らない。
 物語の終わりで、かれはカーボーイのように、自然に開かれた感性のままに生きてみたいと思うのである。この作品には「西洋の没落」と云った戦間期のメランコリーと有終の美が漂っている。

 コクトーの『山師トマ』は、嘘つきトマと云いほどの意味合いであって、短い生涯のなかを嘘を吐き通すことでそれなりに完結した意味を持ちえたトマ青年における、嘘と真実との関係を描いたものである。
 この小説にもサント=ソンプル夫人に匹敵するド・ボルム公爵夫人なる魅力的でお人好しの人物が出てくる。彼女のお人好しさとは、半ば世間知らずであり半ば知性の不足である。しかし世間知や知性や教養が何であろう。彼女はかかる世俗性の一切から免除されているがゆえに、高貴であり純粋なのである。
 そうして嘘をつくことで人を傷つけることもなく無害で善意のままであり続けるトマ青年もまた、嘘と云う「虚構」の世界のなかに生きる高貴で純粋な登場人物である。ここに嘘つきと天使の間の共通点がある。
 ところが世の中とは不思議なもので、高貴さや純粋さと云う概念を崇め奉りはするものの、それは目標であって、それを体現して生きる人間は蔑視や嫉妬、さらには憎悪の感情を手向けられることもないわけではない。物語の最後では、高貴なボルム公爵夫人は愛娘のアンリエットと共に、ゆえない悪意によって滅んでいく。虚構と云う、そこにおいてこそ人間の自由が演ぜられる場所が、真偽の判断や科学的主義的な真理論よってとってかわられる時代を象徴的に描いたと云うべきか。
 嘘とは、同時に虚構としてその枠組みの中においてこそ現世では生きられない自由や夢や理想と云う人間を超えた存在者たちの集う秘密の砦だったのであるが、嘘を道徳性や倫理的判断と取り違えたとき、ロマネスクとしての文学の崩壊と自由と夢と理想の喪失を人類に齎す。コクトーの『山師トマ』は、かかる虚構の世界に生き得た者たちへの挽歌である、