アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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マニアと愛好家 アリアドネ・アーカイブスより

マニアと愛好家
2019-05-04 09:15:36
テーマ:文学と思想


 じつは根気がないせいなのだが、私はマニアと愛好家を区別している。批評家と研究家も区別している。批評と評論と研究も行為のあり方として区分している。あとの方の問題群の方は今回の話しに関係しないから、置く。前者に関して言えば、マニアとは、愛好家であるだけでなく、その道に於いては何から何まで知りたいと云う決意、知らないことを恥じとする感覚でもある。人後に落ちないという自負の思いでもある。だからマニアと愛好家は根本的に対立するものとして取り上げているのではなく、愛好家とは単にマニアの前段階に過ぎないと云うことになる。愛好家の中から選ばれてマニアの世界が誕生する。かかる定義が妥当だとすれば、私は愛好家だと思っている。あるいはマニアにはなるまい、どの分野に於いてもそうなるまい、と云う決意を秘かに抱いている。マニアの仲間意識、世界観の狭さなどが近づくに、障害になっているのである。
 マニアについての良否こもごもの解説はこのくらいでいいだろう。個人的な定義だから強制するつもりはないし、また普遍的な定義でもないだろう。愛好家についてもっと言うと、私の場合は本を読んだり作家を研究する場合、なにからなにまでは読まない。代表的な作品を一作だけ読む。読んで感動と余韻が長引けば続けて何冊か読む。ついには全集を取り寄せて大半を読んでしまうと云うことだってある。しかしそれは稀である。シェイクスピアヘンリー・ジェイムズ樋口一葉須賀敦子など、とても少ない。樋口一葉の名があるのは、彼女の著作量がとても少ないと云う偶然の理由もあるのかもしれない。
 作家の全集本を度外視するほどだから、私の読書法は作家が別に書いた日記とか書簡とか、研究書、評伝の類をほとんど読まない。作品に現れた限りでの作者で良いと思っているからである。しかしそれは人の時間が有限であることからくる利己的、恣意的な感想に過ぎないことも自覚している。例えば樋口一葉の日記を読んで、小説だけを読んでいたのでは到底本当の彼女の真価は分からないな、と思ったことは強烈な印象として今もある。本典以外の資料は作品を本質的に説明することはないのだが、読書を確かに生きる人の人生を豊かにするのである。豊かさの経験を受け取るのか見逃すかは、そのひとの価値観や自由と関係している。
 そう云うことを重々承知しながらも、哺乳類と云う進化の先端にある一個の私には時間が足りないのである。たとえあったにしても、私のキャパシティには限界がある。だから私の読書法は今後も変わらないだろうが、常に例外と云うものはあって――先記の一葉の場合のように――自分を拡張しうると云う、ある種、震えるような読書の醍醐味は、今後もある種の遭遇経験のように、先途に待ち受けていることを否定しない。若き日のカントやジョイスの経験のように、自分のいままでの価値観や経験を、ちょうどおもちゃ箱をひっくり返すようにゼロ次元化する、と云うことだってないわけではないのである。
 まさに前途洋々と云う感じで未来は横たわっている。ただ、それは私のための時間でない、と云うだけのことなのである。