アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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人が人間になると云うこと――福岡空港にて アリアドネ・アーカイブスより

人が人間になると云うこと――福岡空港にて
2019-05-09 22:28:12
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 孫は十六日間、わが家にいて、今日の午後の飛行機で目黒のわが家に帰りました。
 四月の中旬の十日間ほどを東京で過ごし、そのあと同じ日に福岡に帰省し、今日までいたわけですから、東京から福岡と云う場所の移動はあったものの、三週間を越える日数を一緒に過ごしたことになります。
 すでに四人の子育てを終え、子育てについては大体解っていたつもりなはずなのに、同伴者として傍目から見る娘の子育ては、もどかしいほど自身の経験が思い出せずに、新鮮で日々が驚きであるような眼で見る経験、場面、時間と云うものが沢山ありました。と云うことは、子育てに関しては経験と云うものが十全には役に立たず、常に初心者であるしかない、と云うことなのですね。
 特に今回のわが家での経験は、同じ同伴者としての子育てのお手伝いでも、娘の家で見るのとわが家で遣るのとでは違っているのでしょうか。当事者であった頃は気づかないような細々とした観察が出来ているのです。それとも一歳前後の子供の成長と云うものには顕著な変化があるのが普通で、それを私たちが知らないだけなのでしょうか。
 まずこの二週間の間に、下の歯二本だけだったのが、うっすらと、――痕跡はあったとはいえ、みるみる上二本の歯が延びてきました。笑うとウサギさんのように二本の歯が白く光ります。
 その他にも、箱に物を入れるのが好きだったのが、外に出し入れするようになりました。空間を満たす、空にする、動作が相互的になりました。歩き方も、よちよち歩きであることは変わらないのですが、重心が定まった歩き方をします。手押しぐるまを押して、後ろ歩きをするようになりました。これも前後に歩きますから、相互的です。積み木も、壊すだけだったのが、積み上げようと努力します。十枚ほどがセットになっている、コップ重ねの玩具では、まだ大きさの認知はできませんが、極端に大きいものと小さいものの区別ができます。コップ重ねの玩具は、積み上げることもできるのですが、10段あるものを八段までこちらで組み立ててあげると、最後の二段を積み上げようとします。上半身がぐらつくので、八段目を押さえてやると、どうかすると九段、十段と汲み上げます。褒めてやると、両手で膝を叩いたり、拍手をしたり、万歳をしたリ、様々ですが喜びを表現します。
 トンネル潜りは、閉所への恐怖心からか――個人差があると思いますが――なかなかやりたがらなかったのですが、今日できました。それは何となくするようになったという意味ではなく、こちらの表情をしっかりと読んで反応を確かめてから行為に移りましたから、親や保護者が喜ぶことをしたいと云う、意識と認知機能の発達を前提にして初めて成立した行為だったのですね。
 つまり、一歳と一か月ほどなのに、感情の交流が部分的に出来ているのです。さらに驚いたのは、今日の午後、中目黒の家に帰る孫と娘を空港まで送ったのですが、検査場の出入り口をニ三メートルほど潜ってから、振り返って不思議そうな顔をするのですね。つまり二週間ほど一緒の家に暮らして、何時も一緒にいると思っていた筈の私たちが付いてこないので不思議そうな、悲しそうな目で振り返ったのです。この一年間、孫とは様々な機会を設けて会ったり、会食したり、過ごしたりしているのに、こういう眼差しで見返されたのは初めてです。空港のベビー用カートのチャイルド席に乗せられていましたから、きっと両足を抜いて体を一回転させたのでしょうね。
 検査場まで一緒にカートを押していきました。そこからは私たちは入れないので立ち止まり、それから指定されたロープがある見送り場まで後退しました。先ほども述べましたがゲートをくぐってニ三メートルほど過ぎたところでこの所作は起きました。そのとき私たちの姿は離れて豆粒ほどの大きさになっていたと思いますが。
 やがて検査を待つ人影が崩れて、人影の流れにかき消されて見えなくなりました。立ち去ろうとしてふと視線で見遣ると、今度は検査場のゲートを潜り抜けて、豆粒ほどになった影が、検査場の係員の女性に支えられてこちらを指さしているではありませんか。

 

 

 


 哀切な一葉の写真が数枚残されました。
 もちろん、東京と福岡と云う地理的空間概念が育っている筈ははありませんので、認知や認識をした上での行為ではないわけです。また別れと云う言葉に伴う時間性の概念も知らないはずです。言葉の誕生以前の先験的知覚で、何か普通と違ったことが起きたのだな、と感じているわけですね。
 考えてみれば、ほぼ一年と一か月ほど前に彼はこの世に存在せず、ついこのの間まで哺乳瓶を銜えていた、喜怒哀楽の感情だけを表情と体全体でメッセージとして表現していたに過ぎない、主として感覚が支配していた世界の中で、離乳期が始まったばかりの赤ん坊との間に、――中間的な感情が!つまり喜怒哀楽とは異なった内面性の表現が!内面的世界の誕生に伴う第二の誕生とでも言える人生の経験が、言語誕生以前の揺籃による交歓的和合の原初的痕跡が!――ここまでの感情の疎通が可能である、と云う事実にとても驚きました。生命の誕生も素晴らしいのですが、人間の誕生もなかなかのものがあります。人は愛するものとの関係の中で別れと云う概念を、すなわち言葉を学ぶのです。
 こんなことは女である母親なら分かっていることで、男の私だから驚いた、男の側の無知と云うこともあるのかもしれませんが、自分自身の過去の記憶と経験では、こうした出来事はもう少し後だと認識していたので驚きました。
 孫の子育てのお手伝いは、自分自身が過去の経験を忘れていると云うことにまず驚きます。次に、かっての自身の経験と意識のなかでは読み取れなかったことを、当時者性意識からの拘束を免れているがゆえに、客観的に読み取れるようになり、それを新鮮さの意識で受容しているのかもしれない。さらに考えを進めれば、子育てに関しては常に経験を上回る事態が日々誕生しているのかもしれない、――介護とこの分野に限っては素人であるほかはない、素人であることを運命づけられている、と考えるのでした。
 それが人間的時間の経験がもたらす新鮮さ、驚きと云うものなのです。


 (追記)
 喜怒哀楽の感情だけなら、犬や猫でも表現できます。心が通じ合うとは、中間的な感情を表現できるか、という点だと思います。これは内面の誕生と関係していると思います。
 さらに、驚きや不思議さの感情表出は基本的には喜怒哀楽の感情に含まれているように思われますが、そこには定型的喜怒哀楽の世界からの、拡張、という可能性が潜んでいるのだと思われます。
 人間性の発達は、知的な認識能力や判断力の発達のみでは評価できないとはよく言われることです。人間の人間らしさの由縁とは、客観的に物事を評価できる判断や認識能力にあるのではなく、また感情表現の明確さや明瞭さにあるのでもなく、喜怒哀楽以前の言語の誕生以前の中間的な感情、すなわち内面性を表現できるか否かだと思うのです。さらに更にもっと言うならば、言葉以前の言語の揺籃の中で言葉の誕生とともに人は人間となるのです。