アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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放談漫談性言語理性批判――天使と人間の間に生きのびる言葉について アリアドネ・アーカイブスより

放談漫談性言語理性批判――天使と人間の間に生きのびる言葉について
2019-05-16 09:29:53
テーマ:宗教と哲学

 ここに「批判」とは、クリティーク、
すなわちカントが用いたような意味での、
吟味、という意味合いで使っています。
また、「放談」「漫談」とは、この世の特殊な在り方
から限りなくも免れてありたいと云う、
願しき願望を意味しています。


 公共性とは馴染みが育たない市民的な概念のひとつであると思いますが、わが国においても百年以上の歴史があるわけですね。わが国では、公共政策などの言い方にもある様に、主として政治や社会と結び付けられて考えられています。明治期以降の、主として西洋受容の立場から取り入れた概念である、と云う気がします。

 ところが、言葉には本来、公共性に近い概念が性格的に備わっています。ところが言葉がその本来性として持つ公共性が、そのままでは本性を発言できなくさせている条件として、言語の階級制やローカル性がありました。言語は地域によって異なるだけでなく、階級制としての言語としてより機能していた、と云うのです。わが国に於いては、敬語や女言葉として極めて顕著な発達を見た、と言われています。これは近代以降形を変えて、アカデミズムの言語や科学的言語として、一面では有意な役割を演じさせながら、他方に於いては社会の閉鎖性に加担していなくはない、という面があると思います。
 公共性と一口に言ってみても、政治の場と言語の場では意味は異なりますが、二元的な対立と云うよりは、政治の場に於ける公共性と云えども、言語の機能を弁えたうえでの存立でありますから、言語の公共性の方が根源的であることは分かり切った指摘である、とも云えるわけです。

 公共性の言語は、一方では政治の場に言及しつつ、同時に言語の根源的公共性の場にも立ち帰る、という面がありました。ですから私の立場は、あるいは政治的な出来事に言及する場合も、文学を書評したり身辺のことに雑談的に触れる場合でも、ケースに応じて言語を変えると云う在り方を取りませんでした。如何なる場合も言語は一つである、という信念のもとに、領域ごとに言語を変える、という作為を禁止事項として自分に課すことを意識的に演じてまいりました。

 さて、ここまで考えてきて、ブログの言語はどのような位置にあるのでしょうか。
 まず、公平性や無私さに基準を置く、政治的公共性の言語ではありません。
 かといって、アカデミズムやそれに準じる領域的諸世界がもつ言語的公共性でもありません。なぜなら、この場においても、公平性、平等さ、無私さと云う考え方は、政治の世界と同様に、文化や文学の世界においても貫かれていなければならないからです。

 つまり、ブログの言語とは、反転させて言えば、雑談の言語なのですね。雑談、放談、漫談、冗談、の言語なのですね。といって、日々流れ去る、一過性の点語としての日常の会話ではありませんので、――一定期間、電波上の世界にメッセージとして、あるいは「言語」として残ると云う意味で、それなりの権利に見合った責任のあり方も考えられるわけです。

 一面において、ブログ言語には、無名性、無記性を標榜することに於いて、あらゆる責任を免れるという立場もあります。これはこれで許されると思いますが、要は、受容する側はこういう世界と知りつつお付き合いするわけですから、憲法の保証する範囲を逸脱しない限り、個人の趣向や思想の自由度は尊重すべきであると考えられるからです。

 ところで言語の根源性と云うものを考える場合に、実際は、無名性、無記性、人格の固有性云々はあまり重要ではなくなる領域が存在するのですね。つまり言語には私やあなたの所在には関係なく自立、自律できる領域と云うものがあるわけです。つまり言語自らが己を開陳する、という領域が存在するのです。私やあなたの問題ではない領域が存在するのですね。この考え方は、長らく階級制やジェンダーに汚染されてきた日本語の歴史的風土を考えると、なかなかにすんなりとは受け入れない土壌があることも重々承知の上で私は書いているのです。

 言語や言葉についてのオリジナリティと云うものが昨今、著作権などとの関係上議論される場合に何時も抜けているのが、言語の根源的公共性の考え方です。

 つまり言語が自らを語る領域とは、言語が持つ義務と権利の在り方についても、通常とは異なるのです。と云いますのも、言語とは、西洋においても、人は神が創りたもうた、と云うような意味で、誰かによって創られたわけでもなく――人がコ゚ミュンケーション言語を造ったようには!――あえて、不敬な言い方をすれば、人間同様神によって創られた、とも云えないからです。聖書においても、天地創造以前の世界に於いては、言葉は神とともにあった、と云う風に読めるからです。神と言語、それではどちらがより根源的であったか、と云うより、神と言語は一体化された表裏の関係にあった、と考えられるのです。

 つまり私の確信を言えば、有史以降如何様にも多弁にも寡黙にも語られた神とは、言語のことなのでした。

 それでは神(言語)とは何でしょうか。この問いに答える前に、神の手前にある天使の存在とは何でしょうか。天使たちの世界においても人間や神と同様、責任と義務の観念はありますが、それは人間の在り方のようにではありません。

 人間存在とは、そもそもあらゆる面に関して対概念的パラダイムによって構成されていますが、二元論的志向は常に釣り合いがとれているとは言えません。つまり義務と権利を平衡関係として機能させるシステムには何か根本的な欠陥がある、とでも考えなければ理解できないほど、人間性には自然性が備わっていないのです。例えば政治家の方たちなどの中に、義務の概念よりも権利の概念だけが一方的に発達した人種をたまに見かけますが、概略そう云うことを言っているのです。人間存在とは、一般的に言って、義務と権利の関係が程よい平衡関係にあると云う人種を見ることはこの世に於いては稀である、と言わなければならないでしょう。二元論や対概念に依存しながら、その在り方が不均衡であると云うのが、人間存在の在り方なのです。むしろ反語的言い方をすれば、かかる不合理を糧として人間は努力するべく活力を生み出す存在、と云えるのかも知れませんが。例えばゲーテなどは、努めるかぎりにおいて人は人間であり得る、とも考えていたようです。

 少しくどく書きすぎましたが、一方に人間存在の欠陥とも不可解とも云える在り方を一方において、他方に天使の完全存在を置くとき、人間存在の奇妙さ、特殊さは一目瞭然となるのです。つまり人間の在り方から見れば、天使とは権利だけがあって義務が存在しない、極限的な存在、つまり存在の完全性として見えてくるのです。

 こうした天使の存在を考えることに寄って、自分の生き方を顧みた場合に、私の場合、長年の謎が氷解していく思いを持ちました。つまり私たち人間の多くは生まれて間もなくのころから、あるい家庭や学校教育や社会の場などで、なにゆえ権利は取り上げられて、義務だけが一方的に課せられる生き方を強いられてきたかを。つまり天使の存在とは、ちょうど私たちの特殊な在り方を照らし出す、陰画ー陽画の関係になっていたのですね。

 つまりこの稿を終わるに当たって、荒っぽい要約の仕方をすれば、天使とは権利が卓越して義務が全く存在しない世界、他方、人間とは権利だけを取り上げられて義務だけが理不尽に強制される世界、ということになります。
 この考え方は精神衛生上極めて便利な考え方なので、その後私は天使たちが大好きになりました。天使に次ぐべき存在として、聖者たちや天才たちの世界も存在の理由が納得できるようになりました。
 つまり、なぜこの世には聖者や天才たちた存在するのかと。つまり自分自身の実存的在り方の極限態を考えることで、その極限態を突き抜けて反転することによって開けてくる世界があったのです。
 神や天使は不可視ですが、少なくとも聖者や天才たちは見ることができます。彼らとの出会いをどう考えるかはその人の価値観にも寄りますが、自由度の問題でもあります。

 あらゆる義務なき権利のみが卓越した天使たちの世界、その下界に広がり蠢く、義務だけが卓越したかにみえる人間たちの世界、その両者からも遥かに離れたところに神と言語の故郷はあったのです。

 天使たちは神の前で賛歌を歌うと言われています。人間は本来天使に倣って、言語の前で賛歌を歌うべきところを、いまは、歌を忘れたカナリアと化しているのです。

 長々と回りくどい言い方をしましたが、ブログ性言語とは、義務と権利に関して、ほんの少しだけ天使たちに近い存在と云えると思うのです。それは副題に書きましたように天使と人間の中間に存在すると云う大それた不遜な在り方ではなく、ほんの少しだけ、つま先だちしたほんの微量の指先だけが天使の世界に参入することによって、人間であることのあり方を多少とも相対化して見る視点や観点のあり方を贈与のように私たちに与えてくれる、と私は今まで生きてきてみてしみじみと思うのです。