アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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『夏の世の夢』 In 西南2019ーー黄昏のロンドン・65 アリアドネ・アーカイブスより

『夏の世の夢』 In 西南2019ーー黄昏のロンドン・65
2019-05-21 08:14:53
テーマ:映画と演劇

 

 

 


愉しみにしていた、シェイクスピアの『夏の世の夢』です。この西南学院大学・チャペルでの催しは隔年と云うこともあり、たまたま五月のこの時期は旅にでていることが多く、心を残しながらも、この時期初めての観劇の機会を得ることができました。
 今年の春の初めてのロンドン旅行の折は、シェイクスピアの生地に行くことも叶わず、グローブ座の見学も日程的に見送らざるを得なかったことから、二か月後のこの催しで償いをしたいと思っていたのでした。

 プロセニアムアーチのない、ステージだけの舞台に、中央に衝立のようなものが一個だけの簡素な装置で、それも俳優六名だけで演じると云う、どこか木立のそよぎと木質の香りがする、野外劇か能楽のような試みです。場面の転換は、つい立て擬きにエンブレムのついた布地や、枝葉を思わせるメッシュの布地を立てかけるだけで、王宮と森のなかを象徴として演じ分ける、苦肉の策です。しかも六名しかいない俳優が二役、三役を演じなければならないので、悪くすればちんぷんかんぷんになるとところを、衣装と演技力でカバーする、その結果『夏の世の夢』の登場人物たちがくっきりと描き分けられるということよりも、多少、人物像の輪郭に滲みや重なり合いを見出したりして、一個の人格を超えた普遍性が、それなりの効果を発揮していたように思いました。
 英国の古い伝統がある野外劇か能楽のような簡素な舞台を想い偲びながら、遥かにシェイクスピアの時代の演劇とは、こうもあったのだろうかと云う追憶の幻想に囚われてさへおりました。

 素晴らしかったのは、俳優さんたちのパフォーマンスです。舞台装置がないだけ、演技力でカバーするほかはないのです。王宮の場面の雰囲気作りは物足りませんでしたが、妖精の世界に限れば素晴らしいものがありました。この戯曲は、台本を読むだけの範囲では、王宮の二組の男女の恋愛に関するドタバタの取り違い劇に焦点をおいて読みがちなのですが、舞台では妖精の世界の魅力が、比重としては大きくなります。それはレアリズムの演技よりも時として演舞やマイムが持つ超越性が関係しているのかも知れません。今宵は書斎のなかで台本だけを読んでいたのでは分からない、舞台の一期一会に出会うことができました。
 
 『夏の世の夢』と云う初期シェイクスピアの戯曲、読んでいた時は分からなかったのですが、観て感じたのは、自作『ロメオとジュリエット』への、目立たない引用を含んでいることですね。
 父の許したたまわぬ若き男女の純愛を貫くと云う趣向は、明らかに直近の――と思われる、自作への言及です。これに対応するのが挿入劇と呼ばれる、最後に婚礼の催し物として演じられる寸劇です。恋人の脱ぎしてられた衣装を見て殺されたと勘違いしたヒーローが胸に刃を向け自殺を遂げ、ヒロインもそれに殉死すると云う筋立ては『ロメオとジュリエット』へのオマージュですらあったと思います。
 しかし他方において、シェイクスピアのリアリズムは、二人の若い男女の愛をめぐる行き違いの中に、恋する時以外は垣間見せることになる、人間性の本性の貧しさ、と云うことも容赦なく暴きだたせずにおきません。それは本来厳粛な気持ちで観るべき挿話劇の悲劇性を、観客も含めて、皆がみな、散々に馬鹿にするところにも、私たち観客も含めた品性のなさが顕わにされているのです。しかもシェイクスピアは私たち人間の品性の無さを抗議、非難するのでもなく、人間性とはそうしたものだと大らかに云うのです。
 夏の世の夢を「舞台の中で」演出した興行主は二組の成熟した男女です。一つは宮廷において自らの婚礼の儀の催し物として所望した公爵夫妻、もう一つは妖精の王と王妃です。前者は、世界知に闌けた中年の男女がここは年貢の納め時と回心して堅気に帰るような雰囲気もありますし、と云うのも婚約する王妃はアマゾネスの女王と云う設定になっているのですから――、一方の侯爵が酸いも甘いも知り抜いた女たらしの後の姿であるならば、女の方も『じゃじゃ馬ならし』への意図的な言及であると思われるからです。
 実際に、もう一つの妖精の夫婦を見ると、二人は将に中年夫婦の倦怠期の最中にある、という設定になっているのです。
 つまり『夏の夜の夢』自体が、時系列に見た愛の諸相を描いているのです。シェイクスピアの愛情と皮肉な眼差しのもとに!