アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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歴史の偽造について、『否定と肯定――ホロコーストの真実をめぐる戦い』 アリアドネ・アーカイブスより

歴史の偽造について、『否定と肯定――ホロコーストの真実をめぐる戦い』
2019-06-08 10:28:28
テーマ:映画と演劇


 2016年のイギリス・アメリカ映画『否定と肯定』は難し映画である。難しいと云う意味は映画そのものの難解さを意味しない。ホローコーストの真実を如何に語るか、ホロコーストから七十年以上の歳月が経過し、生き残りの生存者たちの多くが鬼籍に入りつつあるいま、証言者がいなくなることを尻目に、大掛かりな、国家的な規模の「歴史の偽造」と云うドラマが仕組まれつつあるのではないのか。この運動は世界的な規模を持つもので、先日の香港における6・4天安門事件の記念集会の模様は記憶に新しい。つまり私の言わんとすることはこう云うことなのだ、――。先の世界大戦におけるホロコーストヒロシマナガサキと云う人類の負の遺産をめぐる論議は、新たな局面に入るつつあるのではないのか、と云う予感である。この問題は戦後一貫として、人類はかかる負の遺産から何を教訓として学ぶか、と云いう形で与えられていた。つまり、アウシュビッツヒロシマナガサキは起きた現実のこととして取り返しがつかぬ誤りであったことは認めつつも、せめてここからどのような教訓を得たらよいのかと云う、理性の立場に信を置いた位置から論議されてきた。
 しかしこの映画に描かれた、自称歴史家アーヴィングの立ち位置は違う。証言者が近い将来皆無になることを見越して、些細な言いがかりをつけて、ホロコーストはなかったと一応言ってみる。反対意見は出ることを重々承知の上で言ってみて、相手の反応を冷静に観察する。
彼の目的はホロコースト否定と肯定に関して相手を論破することにあるのではない。単に反対意見を提示することで、無知な世代が事なかれと優柔不断な相対主義故に、世の中様々な見解があるものだ!と思ってもらえばしめたものなのである。
アーヴィングはホロコーストの否定を信じているわけではない。ホロコーストヒロシマナガサキの経験を単一色に染める人権思想の時代思潮の城壁に穴を開けることができればよいのである。穴さえ開けることができさへすれば、そこから時間の経過とともに民主主義の穴は大きくなるのかもしれない。
表現の自由を前提に、人は何を言っても構わないわけであるから、嘘とわかってはいても反対意見を述べることで真理の殉教者たちを、つまり獲物を相対化の場に晒す。事実が真実として実在の相の元に真摯に論議の対象とされることと、実在の相に反対意見を導入し、相対化の場に晒すことで真理探究のの場に可擬性の概念を導入することは違う、自らが信じてもいないことを言っているうちに信じているうような気になりその事が相手を深く傷つける手段である事に気付き快感すら感じるようになるーーとの間には大きな違いがある。

 この映画が描こうとしたのは、ホロコーストに関して嘘つき歴史家のアーヴィングの虚偽を暴き、アメリカとイギリスの法の正義が勝利する、と云うお目出度い作品ではない。
 過去の歴史的経験が、そこに人類が何を学ぶかではなく、歴史的体験の風化に伴って、あったことを無いことにする、国家的の陰謀――「歴史の改竄」が行われ得る時代に入った、と云うことを描いている。
 現在中国政府が取っている天安門事件に対する過剰な対応、時間と共に風化するのではなく、ますます強まる国策的な記憶の忘却劇こそその典型であると云う意味で、この映画は新しいし、現代的な問題的期に満ちた映画なのである。
 同様の事態は、卑近な例ではあるが、わが国においてもある種の学園建設に伴う国有地払い下げの問題に於いて、明々白々な証拠があるにもかかわらず、あったことを無いことにする、つまり嘘も突き通せば、何時かは真実になる、と云う政府と官邸協賛の国家規模の偽造劇においても明かだろう。つまり天安門や韓国の光州事件が辿りつつある偽造劇とは比較にならないけれども、過去を無いものにしたいという発想には共通性が感じられるのである。