アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ことばの問題と安倍政権ーーことばの犯罪について アリアドネ・アーカイブスより

ことばの問題と安倍政権ーーことばの犯罪について
2018-04-11 16:33:04
テーマ:政治と経済


 ここのところ安倍政権については語られすぎるほど語らていますから、わたくしごときが何をかいわんや、です。
 安倍晋三氏の精神構造がおかしいと気づいたのは三年前の安保関連関係諸法案をめぐる一群の騒乱をめぐる時期でした。一番驚いたのは、憲法解釈等については実務を主務的に携わっている、他ならぬ安倍晋三自身が判断するのが一番正しいことであると云う、無知とも自信過剰とも云える乱雑で粗雑な放言をめぐる一連の改正論議をめぐる経緯についてでした。憲法学者や大学の先生は学生を相手に教室で講義をしておればよい、とも。(言より実行の自分の立場からすれば、学者などの意見は概ね虚言か空論の類である。しかもかかる学識経験者たちの意見を「要請した」のは自分であったことは健忘して、専門家の意見が自分の希望するものを引き出せなかったと言う単純な理由から、こういう止む無き仕儀に至ったことは心情的には理解するが。)
 政治に関心のなかったわたくしがその頃から安倍晋三と云う人間に関心を持つようになりました。民主主義や三権分立についての知識すら十分には持っていないと思われる、歳を食った青二才が、かくも自信満々に語る、その語り方に注目いたしました。そのことが腹立たしいと云うよりも、凡そ知識や学問と云うものに対するかくもあからさまな蔑視観が、背後でかくも一人の人格を汚染しているという事実に興味を抱いたのです。
 政治家のスキャンダルは多いのですが、それらの多くは汚職や金銭紛いの事情、あるいは諸外国なのでは女性がらみの事件による失脚と云う事態も多かったと思います。安倍晋三の事件は、――遠からぬ未来に崩壊するかしないかは別としても、戦後日本の政界政局史のなかでは異色とも云える、言葉による犯罪と云う事件になるのではないのか、とその当時、予感したものです。言葉に対する軽蔑と蔑視は、この政権を言葉(文書)の問題で躓かせるだろうな、とも。
 それ以来三年間、慣れぬ筆と観察力で安倍晋三の動向を注視してまいりました。ここに安倍晋三と単数名詞めいた語り口をしていますが、、ミニ安倍晋三擬きの一群の灰色の群像、と云う風に理解していただいたら良いと思います。
 わたくしは、政治政局政界の話しは論ずる方も多き事ゆえ、言葉の問題として話してきました。とりわけ日本国憲法を論じる場合は、単にこれを占領下に押し付けられた空文と云う理解だけでは不十分であって、実際にはギリシア時代から啓蒙主義時代を経て立憲主義に至るヨーロッパ思想史の諸文献を踏まえて語ることが必要です。と云うのも、作者はだれとは特定できないのですが、条文を読んでみると、起草に携わった複数の論者の記憶と思い入れの中に、ヨーロッパの民主主義の歴史と諸文献の反響が読み取れるからなのです。
 文章を読むとは、単に現れた字面だけをコンピュータ言語のように理解することだけではありません。文書を読むとは、現れた字面を読むことだけではなく、意味の背景に開けた文脈と脈絡を背後で支えている歴史と体系を読むことなのです。そういう文献や学問に対する意識しない人々の畏敬や尊敬と云う無意識化された姿勢が前提されるような社会があってはじめて、――言い方は悪いのですが、汚職を起こしたり、金銭問題に関わったり、私腹を肥やしたり、女性問題にかかづらわったりと、「悪者」や「悪党」が暗躍できる余地も残されているのです。つまり逆説的な言い方になるのですが、「悪者」や「悪党」が生息し存在できる条件は、かかる普遍主義の体系に対する無意識の畏敬や尊敬の念が残存しえている社会とセットであると、云うことを言いたいのです。安倍晋三は我が国の戦後史のなかでかかる「悪者」や「悪党」ではありませんでした。彼が敵視したのは「普遍主義の体系」でした。「普遍主義の体系」のなかには古典ギリシア以来の民主主義に関する諸文献と学問・芸術に対する敵意が潜んでいました。そこにわたくしは注目いたしました。 
 論よりは証拠、と云います。言よりは実行とも云います。晋三氏のモットーですね。これは庶民の知恵としては正しい。しかし庶民の知恵は公共の場で語るに相応しく何時の場合も正しい言語とは限りません。安倍晋三は庶民の言葉と公共の言葉の違いを理解できないタイプの政治家であったのです。
 憲法改正論議、わたくしも実を言うと賛成なのです。ただ憲法を語るに最も不適切な者の手で扱って欲しくない、と思っているだけなのです。
 安保関連諸法案可決後の三年間、言葉の問題として興味を持った安倍晋三氏は、いま公文書偽造や虚言やアリバイ証明の問題で、言葉の問題で追い詰められた局面にいます。私利私欲や贈収賄、不適切な官民癒着や、間違っても女性問題なのではなかったことに、あの日以来の感慨と云うものを感じます。
 私利私欲や女性問題、――人間はエゴイズムの論理の追及に関わる動物でもあるわけですから、資本の論理としては必ずしも責めることはできません。私利私欲とはある意味では最も人間らしい人間であるがゆえの人間らしい倫理的過ち、とも云えます。しかし必ずしも私利私欲を目的としない「普遍体系」と「ことば」への敵意、と云うものは、人間の技とは言えないのです。それは言葉に対する冒涜です。国会や委員会の場で虚言空言を繰り返し、巧みに言葉を貶めながら言い逃れる姿勢が、言葉に対する軽みの姿勢そのものの象徴的な行為と見えてしまうのです。その点をしっかりと伝えておきたいと思います。