アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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語られなかったサン・テチエンヌ教会の坂道 アリアドネ・アーカイブスより

語られなかったサン・テチエンヌ教会の坂道 
2009-03-27 12:23:01
テーマ:須賀敦子

3月27日 金曜日 晴れ 静かな春休み、幻想上の山の生活も終わりに近づいた。荷物をまとめて下界に引き返すとき、つまり俗人に戻る時が来ている。ほったらかしにしていた仕事がやがて私をとらえてしまうだろう。
さて、人生の終点近くに立った須賀敦子は書く――。

「サン・テチエンヌ教会の坂道を降りながら、私は、ふたつの国の言語をまもりつづける、それぞれの図書館が、自分の中で、どうにかひとつのつながりとして、芽をふくまでの、私にはひどく長いと思えた時間の流れのついて考えていた。」

二つの国といっているのはフランスという国とイタリアである。ゴシック的なものとロンバルディアロマネスク的なものと言い換えてもよい。須賀敦子は生涯の岐路にたつたびに決まってパリ時代の学生生活に回帰した。まるで犯罪者が犯行現場を訪れる「みたいに」。

従来青春のいちエピソードとして、あるいは若気のいたり、のように語られたパリ時代が、実は音楽部の通奏低音のような重たい意味を持っていることに気づいたのは最近のことだった。やがて彼女は、サンジャック街が、サンチャゴへの道、もっと限定されて意味では、シャルトルへの巡礼への道であることを、不思議な符牒のように理解するようになる。

シャルトル大聖堂は、聖心時代に彼女が最も愛した教会建築史の講座いらいなじみ深いものであった。須賀敦子の中に感受されたシャルトルはすなわちゴシックの典型的なカテドラルであり、まるで磁石が磁北を一直線に指し示すように、北方的なもののありかを厳かに指示していた。

エマウス運動!

実は年譜を読むと須賀敦子のゴシック的なありかたがエマウスという形で現象しているのが理解できる。1971年7月、手始めに彼女はアルプスを越える。そこが最晩年彼女の想像力の中心ともなるアルザスであることを未だ知らないでいた。しかしその彼方にフランドルの鉛色の海原と、臆病にうち震えている二十四歳の須賀自身のたよりない姿を幻視したはずだ。

日本に帰国後、エマウスにかかわる過程で幾度かフランス中・南部を訪れる。作家須賀敦子の手記を読むと、なにか高級観光ツアーの添乗員として行ったかのように読めるので、ここのところは注意しなければならない。

ツールからアルザスへの須賀敦子の1970年代の旅。これがなぜか酩酊後の渾淆にもにた山の静寂と霊気にむせた私の意識の混濁のなかで、師エックハルトアルザスからケルンに向かった道ゆきに、歪んで重なる。「造化の神」はエックハルトの中では意味を失っていた。

ある日須賀敦子は、もうこんごは教会にもミサにも行かない、と宣言する。彼女は、形象あるもの、造化されたものの崩壊の過程に、すなわち身体としての自分自身が無に化する、自然の輪廻にも似た廃墟に向かう分解過程に、かえってある種の恩寵のようなものを感じていた。

アカデミア橋を渡りザッテレの岸辺に立ったある日、彼女は理解していた、同心円をなぞるように執拗に追い求めた岸辺にたつ<治療の見込みのない病人>という名の病院、まるでそこが人生という磁場の底でもあるかのような「不治の病」とは、彼女の人生に名づけられたもう一つの名前であったことを。