アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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樋口一葉の『別れ道』―― 一葉文学の最高傑作か アリアドネ・アーカイブスより

樋口一葉の『別れ道』―― 一葉文学の最高傑作か
2015-06-26 19:42:21
テーマ:文学と思想

 

・ 『別れ道』は概して長いものを書かなかった一葉の諸編の中でも短い、『たけくらべ』の四分の一にも満たない分量である。一夜の出来事を簡素に綴った『十三夜』に比べてすらさらに短い。分量の短さは構成の簡素さにも影響して、傘屋の吉と手内職の娘、お京の二人ばかりの結構である。
 ある日夜なべ仕事をしているお京のところに、近所で弟のような思いを懐いている傘屋の吉が訪ねてくる。二人の共通点は身寄りがない、孤児であると云うことである。
 傘屋の吉は、近隣をまわる角兵衛獅子に憐れをみた傘屋のお婆さんに引き取らるまま、手代のような仕事をして今日にいたっている。一寸法師とあだ名なされるほどの町内の暴れん坊と云うことになっているが、それは傷つきやすい己の劣等感を隠すための防御本能だろうか。
 他方、親なしの縁者なしの同じ境遇には合ってもお京の方は、万事が如才がなく目配り広く、風当たりを柳に風と受け流して生きる、人生の巧者であるかのように描かれている。個人の境遇だけを同じうする以外はこれと云って共通点のない二人の間に通じ合うものがあると云うのが不思議だか、一葉はそれについての説明をしようとはしない。
 こんなふうにドラマは、設定もしようのない二人のすれ違いを描いて、物語はあっけなく終わる。物足りないと云われても仕方がないだろう。
 
 十二月三十日の夜、吉は何とか師走の傘屋の雑事をしのいでどうにか新年が迎えられそうだ、と云う思いで懐手に下駄の先にかかるものは威勢よくことごとく蹴返して歩いて行く上機嫌の彼を、後ろから追いすがり両手で目に覆いをするものがある。だれだ!、だれだ!、なんだ、お京さんか!、と云う次第である。
 普段に似ない御高祖頭巾に風通の羽織姿を不審に思って問いただすと、とても良いことがあって、明日は引っ越すのだと云う。
 傘屋の吉にも思い当たることがあって、お京がお妾さんになるらしいと云う噂を耳に挟んでいて、それがもとで奉公先で遣り合い派手な大喧嘩をしたばかりだった。やはり噂は本当だったのだろうか。

 お京と云う少女は、一葉の文学の中でも少し毛並みが変わっていて、出生の不運さ生活の不如意さは変わらないけれども、運命の暗さと云うものが無い。樋口一葉の文学が管見で言われているように、江戸文化の揺籃の中に生を受けた武家女の、過去の尾びれ背びれを引き摺った、伝統の女の意地と矜持を描いたものとすれば、そうした負の遺産ですら受け継いではいないかの如くである。人生が与えた偶然としての境遇と、その境遇を運命の好意として受け止めて真摯に生きる、その一方で悲運なものを見る目も確かであり感受性も豊かである。豊かではあるけれども感受性は決して過敏ではない、つまり樋口一葉自身が決して成り得ない、もう一つの運命の女のタイプであったと云う意味で、違った意味での一葉の運命との『別れ道』にある少女のタイプなのである。

 お金のために見も知らぬ男のところに身を寄せるなど、吉の目から見れば到底許せるものではない。社会的な偏見の目に晒され、一寸法師と嘲られても負けん気を見せて反抗的なポースをとってきたのは、その背景にある貧富の差を極端に拡大して見せる明治の階級社会ではなかったか。いまお京は、二人が過ごし語り合った少年少女時代の時間の無垢さを顧みることなく、美味しいものが食べれて綺麗なおべべが着れる社会に転出することを無邪気に単純に喜んでいるかの如くである。吉は共有した時間を失っただけでなく、彼の中に育ちつつあった社会意識、イデオロギーの意味でも同志を失ったのである。

 別れ道の由縁は、失意と失望の極みにある傘屋の吉が、もうお前さんには逢わないよ!と三行半を突き付けて外に出ていこうとするのを、お京が後ろから羽交い絞めにして、行くいかないの子供のような遣り取りのあとに、涙を目にためた吉が、
「お京さん後生だから此肩の手を放してお呉んなさい。」(本文・末文)と云うところで終わっている。
 お京の最後の表情が描かれないまま、吹き消された蝋燭のように途切れるように終わる。

 お京は血も涙もない女か、と云う読み方もあるかもしれないけれども、傘屋の吉とお京と並べてみて感じるのは、町内の暴れん坊として設定されている吉が、実はお京の前では傷つきやすいナイーヴさを無防備に晒している少年として、人格の二面性として設定されていることだろう。
 かく、吉と云う少年を二面性を持った人格として描いているのであるから、お京もまた二面性の奥行をもった少女であると考えなければおかしいであろう。隠された面については一葉があえて省略したと考える方が自然だろう。

 ここでもまた『たけくらべ』の少年少女たちの世界への哀惜が描かれているのであった。
 お京と吉の間に育まれた短い束の間の人生の時間とは、所詮、生きて食うための即時即物的な社会のなかでは陽炎の如き儚き存在に過ぎなかった。所詮は過渡期の如きものであるものを絶対視するなどとは利発て明敏なお京の意識が許すものではなかった。かと言って吉と過ごした時間は恣意的な個人的な感傷なのか、人生の忘れ去られるえべき一過性の出来事かと云うと、そうとばかりも言えなかった。吉の切なさ、自分を姉のように思う心の純粋さをこれ以上見るに堪えなかったのである。ひとは余りにも真正面のものを見せられると辛くて堪えられないのである。

 「己は本当に何と言うのだろう、いろいろの人が鳥渡(ちょうど)好い顔を見せて直様(じき)つまらない事に成って仕舞うのだ、傘屋の先のお婆さんも能(よ)い人であったし、紺屋のお絹さんといふ縮れ毛の人も可愛がって呉れたのだけれども、お婆さんは中風で死ぬし、お絹さんはお嫁に行くのを厭がって裏の井戸に飛び込んで仕舞った、お前は不人情で己を捨てていくし、最う何も彼もつまらない、何だ傘屋の油ひきなんぞ・・・」(本文、フリガナは筆者)
 だれもが思い当たるのではないだろうか。運命に見放されると云うような大袈裟なことではなくて、いつもちょうどよいところで詰まらない風におじゃんになる、人生とは、一度歯車がそんなふうにひと歯噛み外すと、なぜかそれのくりかえしになっていることにあとで思い当たって妙に腑に落ちる。
 
 お京と吉の間に起きた出来事など平々凡々たる人生の諸事に過ぎない、と樋口一葉は言っているのである。
 ここには自分の人生の出来事を過剰に捉えて悲憤慷慨する武家の女の意地と矜持はもはやここにはない。頭痛肩こり歯ぎしりの一葉はいない。誰にでも起こり得誰もが思い当たるものなのである。どこにもありそうな少年少女の、惜別の詩なのである。しかし過剰な感傷の対象とはなり得ない物語が何故にかこころ痛く疼くようにか悲しい、心にずんと、錨が海底の土壌に突き当たったかのように底に響くものが『別れ道』の世界にはあるのだ。

 人は生きるために人生の複数の分節で無意識の取捨選択をしている。『別れ道』に感じる痛いような懐かしさと疼くような悔いいる思いは、誰もがかって見失ったもの、己が主格となって裏切って顧みなくなった、もはや別の人格となった、幼年期の眼差しなのである。 

 お京とはだれのことだろうか。『にごりえ』のお力のように「古い日本の最後の女」(森まゆみ)の郷愁の中に生きて、結局は霊界に引きいれられて新し世の中の「出発」を選ぶことのできない女とは異なって、『別れ道』で生死の世界に生き別れになるもう一人の一葉、死神に引き入られそうな一葉を後ろから羽交い絞めにしている、お京とは。
 お京とは一葉の不器用な生き方を側面から支えて二人三脚で健気に生きた、妹のくにの面影を伝えているのではないか、と密かに思っている。