アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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公民はどこにいるか?(再々録) アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 
2011年の同名の記事は、
2015年の安保関連法案可決の10月にも
一度再録していますので、
今回は、再々録と云うことになります。
いまこそ公共性とは何であるかを語った
インマヌエル・カントに注目を!
 
 
 
◆ ◆ ◆
 
2011年の同名の記事を再録します。
この中で、わたくしの公民はどこにいるか?
というやや悲観的な問いかけは、
今回の安保法案をめぐる、永田町の黄金の日々の中で
ある意味で払拭された、とも言えます。
公民は国会正門の前に、議事堂の中に、
渋谷のハチ公前に、
そして全国の津々浦々にありました。
 
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 昨今、カントの「啓蒙とは何か」や「永遠平和のために」が中山元さんの新訳で有名になりました。
 
 カントは公共性の所以を不言実行ではなく、公開の場、で語ることの重要性について考えました。いわは思惟を言葉として形に現わすことによって見えてくる世界の可能性に気が付いたのです。
 ご存知のように主著「純粋理性批判」は思惟の法則性と限界について、それを主として権利問題として語ったわけですから、単なる思惟を乗り越えること、つまりプラトン以降西洋市民社会を大きく規定していた、”知ること”に根拠を置いた認識論を確信を持って踏み越えたのです。
 時にカント、人口数万のケーニヒスブルグという町に生まれた世界最初の”職業的”大学教授殿は、70歳前後だったと思われます。
 
ところで公共的に”語り得る者”とは誰か?
 
 これがなかなか正確に理解されなかったようです。
 カントは公共性に於いて語ることについて「啓蒙とは何か」の中で有名な比喩を使って説明しています。彼は凡そ次のように言います。
――自分は意見を求められた場合に、単に大学教授の地位とステイタスに於いて語るのであれば、それは公共性に於いて語ると云うことではない、学者として、世界公民的見地から語る場合のみ、公共性において語ると云いうる、と。
 
 カントが生きた18世紀末の晩年は、ちょうどフランス革命以降の啓蒙期に影が射し世界史が大きく方向を変えつつある時代でした。学者としての世界的名声にもかかわらず田舎町で静かな余生を過ごすことにしていた老哲学者の些細な行動のいちいちに当局はいら立ちを隠さず目くじらを立てました。宗教世界も一致して今後聖書については一切彼に語らせないことを当局に約束させたのです。
 
 一方、目を諸外国に転ずれば革命の輸出国、本国フランスではジャコバン党の台頭と内部分裂によって人権思想の理念は大きく後退し、革命に感激した若い世代の失望感を広げつつありました。カントの「啓蒙とはなにか」は、かかる外憂内憂の時代閉塞が高まりつつあった時期に公表されたのです。
 
 公開の場で語るとは何を意味するか。これは先回のアンチゴーネの場合にも言いうることなのですが、公開の場で語るということが大事なのです。行為もまた実効性のあるものではなく象徴的な行為であることでも十分なのです。
 
 カントの公開性において語るとは、主観と客観、理論と実践、一方的に加工される受動性としての自然と欲望の体系としての資本の論理と実証的・実験主義が語る、いはゆる”科学的”なものの考え方が前提している閉鎖系の論理的枠組みの限界についても語っていると思うのです。
 
 啓蒙期の理想が大きな反動の波に洗われるつあった18世紀初頭における老カントの一徹さ、彼の世界公民的見地もまた象徴的な行為の域を出るものではありませんでした。
 
 公共性とは何か?世界市民的公民とは何処にいるのか?カントのいっけん老いの繰り事にも見えるようなこの問いは、夜空の星とわが心の内なる道徳律ほどにも老いた哲学者の内なる心の世界では屹立しつつ孤独でした。
 
 カントは迫りくる老いの器質的疾患――最近の研究では認知症だともいわれています――への不安な兆候と、追いつ抜かれつの、真横一直線に雪崩れ込む死神とのデッドヒート劇を予感しながら、乾坤一擲を最後のこの瞬間に籠めました。老いとは円熟や円満という名のものごとの終わりなのではなく、最晩年に向かって、却って精神が若返ると云う逆転劇が、世界史の一角で一人の男の精神を舞台に、人知れず起きていた、と思うのです。
 
 
原文は次のとおりです。