アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテの『親和力』・再論 アリアドネ・アーカイブスより

ゲーテの『親和力』・再論

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 シェイクスピアルネサンスの様式美を遥かに遠く離りて、ゲーテの『親和力』の世界を迎えると、バロックロココの美が腐乱するまでに爛熟し、文化文明は大地の大いなる自然性のなかに飲み込まれてしまうかに見える。
 親和力は不思議な小説である。一読して感じた不快感を忘れることはできない。二十数年の時を隔てて読み返してみて、その無残さの意味が分かるに従って、人間としてのゲーテへの信頼感すら揺らぎかねないほどの衝撃力をこの作品は備えていた。この小説を読んでも持ち堪えることが出来るようになったのは、シェイクスピアの全戯曲を読み終えたのちのことである。シェイクスピアを支えとして、ようやくこの作品と対峙することが出来るようになった。
 二組の男女がいる。一つは理性的な紳士と淑女、彼らには富みと社会的名声が与えられて、何不自由がないように思われる。そこに何らかの赤い運命の糸に操られるように男と女が別々に、何の関係もなく現れる。まるで理性的に生き、明晰判明であることが劫罰ででもあるかのように。


 親和力とは物質が持つ根源的な化合力、自然の力である。理想的な紳士と淑女は、カントの実践理性の法則を忘れて、自然の理法に従う。ここに云う自然の理法こそ、ゲーテが名付けた親和力と云うものの意味である。
 紳士は、彼らにとっては親戚の娘に当たる若いオティーリエと、まるで蝶が花の蕾に吸い寄せられるように結ばれる。他方、淑女は造園の意志を持つ彼女の助言者との間に、親和的な関係を成立させる。この世の掟とは違った次元で成立する男と女の関係、そしてこの世を超えた次元で結び合わされたかのように、淑女は一人の男の子を生む。しかも紳士と淑女の肉体的和合関係の最中において、精神は互いに慕う方向の方を向いて、つまり紳士はオティーリエを慕い、淑女は彼女の助言者を思って和合がなされた結果、産み落とされた男の子の相貌は、理念的世界に出会った二人の男女、紳士とオティーリエにその面影が似ている、と云う運命の皮肉な結果を生むのである。
 現象的には問題がなくても、精神的な姦通を通じて生まれた男の子は、オティーリエの不注意から池に溺れて死ぬ。偶然だったのか、故意だったのか。もはや八方ふさがりとなった紳士は妻との間に離婚を決意し、つまり遅きに逸したとはいえ自然の理法に従う決意を選び取るのだが、強引に結婚へと突き進む紳士の求愛を拒みつつオティーリエは自らを処罰するかのように、あらゆる食物を断ち、断食のなかで死んで逝く。
 世俗の掟に従って生きることも不自然であるし、自然の理法に従って生きることもできず、自暴自棄となった紳士は戦地に死に場所を求めて戦死する。同様の経緯を受け入れて、淑女の助言者であり同伴者でもあった造園家にして建築家でもあった男も、親和力の世界を静かに去っていく。
 何という結末であろうか!
 
 この主要な物語を相対化するものとして、「隣の子供たち」と云うエピソードがある。かれら四人の男女が紡いだ悲劇的物語を浄化するものとは、あらゆる思慮を捨てた、乾坤一擲の行為である、と云うのである。死を賭した行為のみがあらゆる悲劇を救いうる。
 納得されただろうか。
 
 
 ゲーテの『親和力』の世界から導かれるのは、世俗の道徳性や倫理が持つ破壊的力である。紳士の優柔不断さは文明の子としてやむを得ないところがある。内面にカント的な格率を持ちながら、情に絆されていくオティーリエは、情に見合っただけの倫理的な代償を世俗に対して支払う。同様に紳士もまた自らの命をもって支払わせられることになる。
 ゲーテが書き忘れていないのは、物語の後半の部分で、オティーリエの自然死を巡る賛否両論のなかで、彼女の死を通じての聖女化の働きが蠢きつつあることを書き忘れていない点であろう。
 ゲーテはオティーリエの死をめぐる一連の経緯の中に、聖女化や聖跡を求めるカトリック的体質に対して疑問を呈し、かたくなな生命を拒む愛の理念的精神化の過程を通じてプロテスタント的なものの考え方に対して疑問を提起しているのではなかろうか、最近のわたくしはかく、このように考えている。