アリアドネの部屋・アネックス / Ⅰ・アーカイブス

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ゲーテの冷酷と暖かさ・1 エドゥーアルトとシャルロッテの場合 アリアドネ・アーカイブスより

 
 
 ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ、表面的には訳知り顔の、世知に闌けた文化人且つ学者として、万事を丸く収め、諸事に当たってはそつなくこなした大人の知識人、として知られていますが、彼が――たとえば、カントやヘーゲルに与えた片言、ベートーヴェンなどに与えた評価には違和感を感じます。
 彼の処女作からしてそうなのですが、若きヴェルテルの悩みを克明に追跡し描きながら実際に遣ったことは、あの突き放した末尾の、無残とも云える描写はどうだったのでしょうか。それで若き日のわたくしは本を閉じるいとまもなく、気になるのでもう一度読み返してみました。そこにはこう描かれていました。――常識も見識もなく知人の人妻に横恋慕した、世間知らずのお坊ちゃんの、わがままと気ままさ、それを大人の態度で許した親友の夫妻の暖かい対応とを!
 熱気に浮かれたフランス革命期以降の、後進ドイツの、いやがうえにも高まった幻覚的なロマン主義的な熱情とを。その愚かさを描きながら、ゲーテはさも理解ある大人の振りをして、僕は最後まで君たちの見方だよ、と云うのである。世の中と適当に折り合って、何不自由のない豪華で且つ華麗な宮廷生活を横溢しながら、ある意味では自分の着想と脳みそから生まれた青年たちの命運に成す術を知らなかったのですから。結局、彼はロマン主義運動の青年たちだけではなく、自分の一人息子ですら、悔悟の気持ちのなかで遠いローマの記憶の中に失いました。大人ぶって口では良いことを言いながら、自分の不遇の息子の命をどうして遣ることもできなかったのですよ。皮肉なのは小ゲーテの最後の命を看取ったのが、若いヴェルテルに描かれた、当時ローマで医業として開業していた、かのロッテ夫人のご愛息であったと云う偶然の皮肉があった、と云うのですから。彼はどこまでご親友の夫妻に迷惑をかけたと云うのでしょうか。
 『親和力』については何度か語ってはきましたが、例の紳士と淑女のお二人、――エードゥワルトとシャルロッテの理想的なカップルのことですが、このお二人がなした事を到底に難する気にはなりません。このお二人は、理性的で若いころから分別、良識の備わった方々でした。若い頃、互いに一目惚れをしていながら、当時の慣例に従って結婚生活は別な風に考えました。偶然が重なり合ってお二人がともに互いの伴侶に死に別れたのちに、二人は互いを見直して仕切り直しに良い頃合いだと考えました。つまり直情的な行為には結びつかない理性的なお二人だったのです。そのお二人にある事情が生じて、エドゥーアルトは相変わらず一人暮らしをしている親友の大佐殿に、家庭生活の和やかさを経験させ、出来れば今後の社会生活に向けたアドヴァイスもしてあげたいと云う行為から彼らの生活に引き入れ、他方シャルロッテシャルロッテで、厳しい修道生活を送っている姪を引き取って親代わりをしたい、出来れば親の代役でもかって出たいと云う理性人にありがちなお節介焼の軽い気持ちからその独身の、うら若き美貌の姪を引き入れるのです。そして、ここから思わぬ”親和力”が働いて、理性で制御もできないし、収拾もつかない事態を迎えるのです。
 ゲーテの、余りにも豊かな筆致ゆえにオティーリエにばかり目が行きかねないのですが、主人公格の一角をなす紳士と淑女のお二人もなかなかに興味深い関係なのです。重要なのはこのお二人が、結婚適齢期を境に既に豊かな愛の経験を有し、結婚生活をそれと別物だと、つまりゲーテのように愛と結婚は別もので婚礼を社会的儀式の一種だと考えていた点です。そしてかく考え実行した点についてわたしどもが何も言う筋合いはないのです。正しい選択であったと思います。重要なのは彼らの間で愛と云う観念が段階的に成長を遂げていると云うことなのです。
 愛の第二段階とは、先行した観念論的な愛の形式を、社会的・経済的な背景で支えてあげると云う点です。オースティンではありませんが、所詮経済的な保証なしに愛が育つはずがないのです。こうして二人は若き日の彼らの愛の姿を、もう一度、彼らの社会的身分、経済的諸条件を加味して受け入れるのです。普通であればここで目出度し!となるのですが、愛の発展段階では、ゲーテはまだ先があった、と云うのです。
 こうして愛の第三段階は、まるで人間を超えた愛の定言命法、あるいは自然科学における化学反応に云う、物質と物質の間に秘かにかわされる物活論的世界――親和力!が命じるままに、まるで人形劇で操り糸に手繰り寄せられるかのように、二人の間に神秘の牽引力が働き、結ばれるのです。
 この事態に、実践理性の定言命法を奉じるカントであるならば有効な出だてを見出すことが出来たでしょう、――つまり”逃げ出す!”という選択肢を!――ヘーゲルであるならば、しかめつらしくも厳かに語ることが出来たでしょう、――愛の弁証法的、と!一夫一妻性と愛の純粋性をアウフヘーベンする方途について!カントもヘーゲルも乗り越えたつもりのゲーテにおいては、かかる観念論的禁じ手に縋るわけにはいかないのです。
 愛が第三段階を迎えたとき、理性のひとシャルロッテは嫌悪の感情と愛の神とその託宣について、敬意の礼をもって遇するほかはありませんでした。この哀れなシャルロットとは、ある意味でゲーテその人の寓意でもありました。
 
 矛盾を矛盾のままに、立ち止まって踏みとどまる、憐れみを受け哀れと云われようとも、不決断の優柔不断を指摘されても、革命後の最後の文化人として殿を務め、したりふうのあらゆる抗弁を排して踏みとどまる!ゲーテらしいとも云えます。