二人のヴォルフガング――ゲーテとモーツァルト アリアドネ・アーカイブスより
ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテとヴォルフガング・アマデウス・モーツアルト、意外とこの二人のヴォルフガングについて述べられた記述はわたくしの知る限りでは、ない。
ところが謹厳にして厳粛な、かのゲーテ文学の中の異峰の問題作『親和力』と、軽やかな軽音楽擬きのクラシック音楽かとも思われかねない『コシ・ファン・トゥッテ』、軽薄なロココ風の頽廃趣味と遥かなる人間的本性への憧憬を描いた二人には似たところがあったのである。
ヴァイマールで貴族の称号すら獲得した、ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテに、その社交界でこの作品さへなければと、秘かな紳士淑女の顰蹙をかっていた不道徳作品『親和力』と、モーツァルトのポルノオペラかとも思われかねない『コシ・・・・・』の軽薄にして頽廃的な世界!ドイツを代表する二人の天才にして、主流とは離れてかかる異作があることが興味深い。
人間の本性とは何であるか。人間の自然とは何であるのか。かかる問を巡って『親和力』は深刻な悲劇に至る。わたくしたちはかの偉大なるゲーテにして彼の愛する登場人物たちを救い得なかったこと、彼の作家としての無情さを非難したい気持ちで一杯になる。彼には『若きヴェルテルの悩み』の時の前歴があるので、なおさらである。ゲーテの巨大な胸を叩いて泣きじゃくりながら何度も問い質したい、泣き枯らすまで問い詰めたい気持ちで一杯になる。
『コシ・・・・・』では、それが”ごめんなさいね”風の軽薄で軽率で軽快なオペレッタ風の喜劇となる。わたくしたちは彼らの自業自得にも似た運命を笑いながら、最後にはなぜか笑顔が凍りつくのを感じる。微笑みがそのまま凍り付く!